8、10部族完成摂理期間


「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」
「牛鍋食わぬは開化不進奴」(現代風に意訳すれば「牛鍋を食わないとは、とんでもない時代遅れな奴だ」)
BY、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』

 明治維新によって階級社会は崩壊し、民間に新しい風が吹き始めた。人々は自由と平等に酔い、文明開化に浮かれ喜んだ。しかし、明治の終わりである1912年 に迎えた暗転化点以降、時代は暗がりに落ち込んで行く。

  
 


 第一次完成摂理期間(1872〜1933)
   古代から一貫して述べて来たように、日本に生まれた天の側の宗教は必ず「神々の崇拝」の洗礼を浴び、これを克服して〔天皇改宗〕しなければならなかった。
 第一次完成摂理期間である1872年から1933年までの61年間はキリスト教徒を通して働く神と神道信者を通して働く悪魔の対決が明確になった時代であ り、その後1933年の右翼革命によって国家の主権を12年間、天皇絶対主義者(神道信者)が握ったのである。こうして引き起こされた第二次世界大戦の対米戦争 の敗戦によって、大日本帝国は新たに民主主義を原理とする日本国として生まれ代わったのである。
 この時代に天が立てた宗教であるキリスト教を中心に明治以降を見てみよう。

 またキリスト教が解禁されたので、この時代から「日ユ同祖論」が唱えられるようになったのである。

 
 キリスト教を中心として見た明治・大正・昭和
 第一次完成摂理である明治から昭和初期にかけてのこの時代は仏教伝来後の精神的啓明期と極めてよく似た時代であった。
 しかし、むろんの事まったく同じではない。
 この期間において天の側の宗教の中心はキリスト教プロテスタントであった。
 1872年〜1912年までの40年間において  森有礼、植村正久、坂本直寛、内村鑑三、などがそれぞれ預言者型使命を果たしたのであった。

 1872年、プロテスタント史上、最初の受洗者12名が洗礼を受け、翌73年『切支丹邪宗門禁制高札』の撤去がなされ、横浜公会を母体とした「日本基督公 会」が発足する事により、日本キリスト教の公式路程が始まったのであった。以後1945年の敗戦に至るまで(の73年間)、キリスト教と国家神道の闘いが続いたのである。

 この期間の特徴をよく表しているのは、次の3つの事件である。
「日本キリスト教についての教理史」「植村・海老名論争などの詳細」については多くの人が研究して いるのでここでは述べず、ただキリストと国家神道の闘いを明確にしておこう。

〔森有礼の暗殺〕・〔原敬の暗殺〕・〔不敬事件〕
   1、 森有礼(1847〜89)の暗殺
森有礼は米国留学時に洗礼を受け、坂本龍馬が暗殺されると、天に帰国せよと言わ れて帰国し、キリスト教の解禁に尽力した。1885年には伊藤内閣の文部大臣に就任した。しかし1889年、大日本帝国憲法発布の日に国粋主義者・不満浪 士西野文太郎によって暗殺された。
 この暗殺の直接の原因は、英国留学、駐米大使を経て、男女同権の契約結婚などによって当時最も近代的政府要人として知られた森に「伊勢神宮の御すをステッキ でもちあげた」といううわさが流れたからであり、神官の息子であった西野は、これを不敬とみて暗殺するに至ったのであった。
 このようなメンタリティーは今日の国粋主義者にもしばしば見られる。
 1990年の本島等長崎市長狙撃事件において、「天皇に も戦争責任はあると思う」と発言した本島等長崎市長 を右翼団体幹部が「不敬だ」と脅迫して銃撃した事件や、1994年の細川元首相の「侵略戦争発言」に憤った右翼によるピストル暴発事件が起こった が、まったく同じメンタリティであると言える。


2、 原敬(1856〜1921)の暗殺
 1918年、大正デモクラシーの中で日本で初めて本格的政党内閣を成立させた原敬は平民宰相と呼ばれたが、1921年右翼青年に刺殺された。洗礼名ダビデ・ハラ。原敬は 「日本をキリスト教国にしたい」という願いをもっていた。
 

 この二つの事件は、日本において、この時代に政治権力を握る事の難しさを教えてくれる。
 すでに龍馬の家督を継いだ坂本直が、キリスト教徒であることを理由に、宮内庁を辞めさせられた事は述べたが、その傾向は時代が進むに連れて強くなっ て行ったのである。


3、 内村鑑三・不敬事件(1891年)
 1891年、教育勅語が施行されると天皇の御真影に礼拝する事が強制されるようになった。当時第一高等学校の講師をしていた内村鑑三は天皇を神と するこの偶像崇拝に困却し、簡単に頭をさげただけで降壇した。これが生徒と教師に非難され、各新聞は「キリスト教は国体に相容れない」と書きたてた。世間は内村 を「不敬漢」「国賊」とののしり、内村の家には瓦石が投げ込まれた。さらに内村はインフルエンザに倒れ、免職され、同じ病に妻を失った。妻を失い、職を失った内 村はその後数年間極貧の生活を強いられ死線をさまよった。

 内村の不敬事件に触発され、各地でキリスト教信徒は天皇への偶像崇拝を拒絶し、それが神道信者に非難されると言う不敬事件が相次いだのである。

不敬事件に対する世論
 各新聞が「キリスト教は国体に相入れず」「内村は非国民である」とセンセーショナルに書きたてたのである。仏教徒の論壇でも「キリスト教は国体に相入 れず」と攻撃し、また東京帝国大学教授の井上哲次郎が激しく内村を攻撃したことで有名である。
これを受けて、植村正久(キリスト教側・『福音新報』)も論壇を張って応戦したのである。しかし内村を非難し批判する世俗勢力の方が圧倒的に多かったのは言うまでもない。
『福音新報』は発売禁止となった。

 *この時代の仏教徒の著作として後世に残る価値があるのは古河勇『教育と宗教の衝突を読む』くらいしかない。

元々国体と妥協する性質を持つ日本組合基督教会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝は許されると主張したが、日本基督教会の指導者、植村正久はこれを認めなかった。
宣教師グリーンに始まる組合教会は、当時の聖書高等批評を受け入れ 金森通倫は聖書の啓示性を否定し「モーセ五書はユダヤ人の伝説や神 話の寄せ集めである」と主張した。この派は1920年から「天皇崇拝」を大々的に認めたのであった。
明治時代においては、唯物論と科学主義の傾向が強い組合教会(カイン)と福音主義に立つ一致教会(アベル)が対立しながら発展したのであった。しかし40年期間が 終わると、次の時代を乗り切るには、教会の連携が必要であった。ゆえに1912年、突然教会合同の話がもちあがったのだが、この時代には成就しなかった。
後の賀川豊彦の〔神の国運動〕には多様な意味があったが、全国のキリスト教会に相互協力関係を打ちたてるのが、その主たる摂理目的であった。


4、 不敬事件の摂理的意味
 すでに論じて来たように、日本民族の中心摂理の目的は〔偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件〕を立て、〔天皇改宗〕する事にあった。 日蓮聖人の時、日蓮の弟子達は「竜口法難」において、日蓮と一体化する事ができず、皆不信に落ちいり〔偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件〕 を立てる事ができなかった。そのため日蓮聖人中心摂理の目的は成就する事がなく、日蓮宗実体展開期210年の京都伝道において信徒達は、祖師同様の迫害をう けながら、〔偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件〕を立てたのであった。こうして初めて〔天皇改宗〕のチャンスが訪れたのだが、1536年の「天文法乱」におい て京から追い出されてしまったのである。

 内村鑑三の不敬事件も又同様に〔偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件〕であった。他のプロテスタント達が彼に見習う様にして同様の不敬事件を起こし各地で 迫害を受けながらも、後の21年間をキリスト教徒は伝道に励み、明治天皇が死去する1912年の直前に〔天皇改宗のチャンス〕が訪れたのであった。カソリックが天皇家に入りかけ、内村は 「天皇が改宗するならカソリックでもいい」ともらし、祈りによる協助をしたのである。
しかしこの時「天文法乱」同様に 「大逆事件」  「フレズノ不敬事件」 などが起こり、キリスト教は天皇に対して不穏な態度をとるものと白眼視され、この〔天皇改宗摂理〕も又成就しなかったのである。
 直後、明治天皇は死去する。



5、 天皇制の強制力
 さて我々はすでに調べた不敬事件、森有礼および原敬暗殺から、この時代のキリスト教対国家神道の闘いを読み取る事ができるであろう。
   民間レベルにおいても数少ないキリスト教徒はしばしば国体信奉者と衝突したのであった。この 時代に「天皇を神とする」国体観念は強制された。子供の頃から「天皇は神である」と教育され、この観念に反発する者は国家権力の手によって取り除かれて行った。 やがて3代も経過すると狂熱的に国体観念を信奉する者が多くなり、ついに右翼革命を引き起こし、国民を戦争へと引きずっていったのであった。
 少しキリスト教以外の思想・宗教、活動家を覗いてみよう。くわしく述べるとキリがないので、おおまかなスケッチに留める。
天皇制の強制力はあらゆる方面に及んでいた。大学内における研究も天皇制タブーに触れる研究発表は排斥された。とりわけ日本民族の古代史に関する研究は天皇制 の神話教育に触れるので、これにはばかりながら研究されたのであった。
 今日、戦後民主主義憲法の中に生きる我々には想像しがたい事だが朝憲崇乱の名目で発売禁止処分になった著作は多い。1900年治安警察法が制定され、政治、労働運動 の規制が強化され、1910年の大逆事件と共に悪名高い特高思想警察が置かれる事になる。大日本帝国憲法には条件つきで思想・信条の自由が一応制定されていた。
帝国憲法第28条にいう。
「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ヲ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」
 しかし王政復古以来、祭政一致の国家神道政策をはかって来た政治風土の中で信教の自由が保障されるはずがなかった。国家神道を批判し、神社参拝を拒絶するような行 為はすべて「臣民タルノ義務ヲ背ク」ものであるから、当然法の名の下に断罪される事になる。
 明治時代が終わる頃から次第にキリスト教はこの憲法に拘束され始め、次に述べる「三教会同決議」以降の21年間、次第に拘束され動きを封じられる過程をたど るのである。と同時に国家は慢性的な不況に突入し、これも又21年間に天災や飢饉がうねりを上げるように生じながら1932年には行き着くところまで行くのである。
 かつて日蓮は「邪教が栄えるとき国に災悪が起こる」と述べた。
 この真理の言葉の通り、国家神道が繁栄しキリスト教を迫害した時、国に転変地異が起こり、滅びの道を突き進んだのであった。
 天変地異が起こるのは天が「あなた達は間違っているから正しなさい」と教えてくれているのである。どうしてそれが分からないのであろうか?

2011年、日本は今、慢性的な不況の中、やがて天候は狂い大きな災害が立て続けに起こるようになる。
それは今の日本人の心の歪みを教えてくれているのである。
 天はこう言う「あなたは今間違っているから変わりなさい」と。


6、三教会同決議(1912年)
 内村の立てた条件の下になされた明治天皇改宗の摂理は失敗に帰し、暗転化点である1912年には国家が宗教を拘束 する三教会同決議がなされた。
 さらに1925年には後世に極めつけの悪法として汚名を残した治安維持法が制定され、 徹底的な思想・宗教弾圧が行われるようになった。

7、教派神道と仏教諸派
 明治維新前後には、日本全体の霊的活動が活発となり、こうして生まれたのが天理、大本、ほんみち、などの教派神道であった。
 まず天理教の歴史を見ると天理教はキリスト教 と共鳴するように国家によって圧迫された。さらに天理教祖中山みきの殉教的死の後分派した 「ほんみち」の大西愛冶朗は、自身を神の甘露台であるとみなす事に よって天皇制の呪縛から脱し、「天皇に天徳なし」と書いたビラをまき、反天皇絶対主義を主張した。この教派は徹底的な弾圧を受けた。 (1928年、ほんみち第一次弾圧)
 次に出口なおと出口王仁三郎が神がかって創った大本教は、 「世直し」を叫び部落開放運動などを進めたが、公認されず淫祀邪教扱いを受け、治安維持法が制定後 壊滅的迫害を受けたのである。(1921年、大本教第一次弾圧。1935年、第二次弾圧。)
 出口王仁三郎は、第二次大戦の日本の敗北を予言したが、これらの教派は10部族蕩減歴史においては預言者の系列として位置づけられる。

 次に仏教諸派について言及しておこう。
 すでに市民の宗教であったプロテスタントは仏教にとって啓蒙的存在であって、仏教は攻撃しながら逆に指導されて行くという歴史的に皮肉な現象であった。 例えば「信教の自由の闘い」などもプロテスタントに触発されたもので仏教よりもプロテスタントの戦いの方がはるかに深刻であった。
 総じてこの時代の仏教は幕藩体制にその自主独立の精神を失い、執政者にアメとムチで飼い馴らされてしまっていた。かつて「僧尼令」と戦った行基菩薩や 「大乗戒壇運動」を孤独に勝ちとった最澄の自主独立の精神はこの時代の仏教徒に見る事はできない。 いかなる世俗の権威よりも仏の真理を上位においていたはずの日蓮の法灯も、幕藩体制の中で消えかけ、今やかすかな光を残すのみであった。  明治から昭和にかけて後世に語り継ぐ価値のある仏教徒は数すくない。

8、大正デモクラシー(1912〜1926)
 夏目漱石が「こころ」の中で「天皇に始まって天皇に終わったような気がした」と述べた明治が終わると民間に吹き込んだ西欧近代思想とキリスト教から 大正デモクラシーが胎動する。「人間」「自由」「平等」「解放」「民衆」「教養」などの言葉に集約されるこの時代、人々は人権擁護を叫んで「部落解放」 「女性解放」を唱え、普通選挙権への要求が高まったのである。
 こうして原敬による本格的政党政治が始まったが、すでに述べたように原は暗殺される。人民の権利高揚に対して右翼思想団体が「国体擁護」という線から テロリズムをはらんだファシズムへの萌芽も内包していたのである。普通選挙法案と治安維持法案は抱き合わせで議会を通過していた。
 第一次大戦の特需景気は終わり、物価高の中、大衆の生活は苦しく米騒動 に見られる不況が続き、労働運動が高まった。
 そして関東大震災が起こったのである。(1923年9月1日) この震災のさいには無辜の朝鮮人8000人が殺害されたのであった。これは日本民族の狂気が立ち顕われる前兆であった。




 日本のファシズムとファシズム下の人々

1、テロルと思想弾圧

日本のファシズムはイタリアやドイツのように大衆的なファシスト政党の組織的クーデターを経て、フアシスト政権を樹立すると言う過程をたどらず、明治維新以来の国家神道 の土壌の上にテロリズムと思想弾圧によって、その国家神道の土壌が強化するという過程を辿った。そのためファシズム成立の時期を定める事は困難である。
1931年(昭和6)の満州事変をもって侵略戦争が始まったので、この時代から敗戦(1945)までを「14年戦争」又は「15年戦争」として時代区分する学者もいる。 しかし、国外における軍事行動が国内のテロルを誘発し、ファシズム化するにはなお若干の時間が経過しているので、本書では1933年をその時期とする。
1933年はドイツでヒトラー率いるナチスが政権を取った時期でもあった。

この日本のファシズム化に対してテロルでその反対勢力を攻撃したのは右翼団体であったが、中でも日蓮主義的右翼が果たした役割は小さくない。明治以来の 国家神道化の中で日蓮宗はその日蓮の教説を国体思想に矛盾しないように変化させていく。
日蓮の思想には明治国家にとって、いわいる「不敬」にあたる内容が多くあった。例えば日蓮は「法華経を広むれば釈迦仏の使いぞかし、僅かの天照大神、正八幡なんぞ と申す神は、この国には重けれど、小神ぞかし」(『種種御振舞御書』)と述べて、明治国家の絶対神たる天照大神を「小神」と呼んでいた。そのため明治元年、太政官 は日蓮宗諸本寺に対して日蓮の本尊曼荼羅における天照大神の位置の低さを取り消すように通告した。すでに江戸時代に、祖師日蓮以来の独立独歩の姿勢を捨てていた 日蓮宗諸寺はこの布告を唯々諾々と従ってしまったのである。こうして日蓮の教説を強引に歪めて、国体思想的に解釈する風潮が生じ、生まれたのが田中智学 の〔国柱会〕であった。
この団体は日蓮の名を借りた国粋主義団体であった。さらにここから井上日召の〔血盟団〕 が生まれ「一人一殺」のテロルを実行し、ファッショ化を進めた。
 さらにこの延長上にいたのが、軍内ファシズムのシンボル石原莞爾であった。石原は「〔天皇を信仰する者・王道・アジア〕と〔天皇を信仰しない者・覇道・アメリカ〕 の間で最終戦争が起こり、日本が勝てば「八紘一宇」の平和理想世界が実現する」という恐るべき妄想を展開した。 この「天皇による世界統一」と言うビジョンが日本の狂気の核心であり、その後の不幸はこのビジョン によって引き起こされたのである。

* 石原莞爾
当時、右翼のフィクサー頭山満達は「アジア主義」を唱えていた。
東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大ア ジア主義)、そして昭和研究会による「東亜協同体論」としての政策化、「大東亜共栄圏」構想していたのである。
石原は血盟団の思想とこれをミックスさせたのである。
この「大東亜共栄圏」「八紘一宇」などの言葉は、戦時中、大本営が侵略戦争の正当化のために多用したので、戦時の新聞にはこれらの言葉が踊っている。

1931年石原莞爾を中心として満州事変が引き起こされると同時期、国内では参謀本部の橋本欣五郎中佐らが組織し た〔桜会〕と大川周明らの民間右翼が提携して政党内閣を倒そうとする「三月事件」「十月事件」 が起こり、翌32年には「血盟団事件」が引き起こされる。さらに5月には海軍青年将校が犬養首相を殺害した。(「5・15事件」)
この一連の右翼と軍部のテロルは支配層を脅かし、5.15事件の後、斉藤実海軍大将の「挙国一致内閣」が組織され、ここに政党政治は終わりを告げ、 ファシズムの流れが決定した。
以後、政治に対する政党の力は次第に小さくなり、右翼勢力が政治的発言力を増した。同時に国体に反する思想はことごとく弾圧され始める。
1935年までにマルクス主義を弾圧すると同時に自由思想・学問にも弾圧が加えられ、1933年には自由主義的刑法学説を唱えていた京大教授滝川幸辰が免職 になる。(滝川事件)さらに美濃部達吉の天皇機関説を攻撃、美濃部は不敬罪告発を受ける。一方、新宗教の大物達も次々と取り除かれて行く。 1921年大本教第一次弾圧、同年京城に朝鮮神宮創建、1925年治安維持法成立後1928年ほんみち第一次弾圧、1932年上智大学生靖国参拝拒否が 問題化、1935年大本教第二次弾圧、1937年ひとのみち教団不敬罪告など・・・。

*国体
国体とは、日本神話の、皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)とする秩序の事。
日本の国家と皇統は神々に由来し、日本は神々に守護されているという神国思想と天皇を中心とする日本の国の歴史を称揚する歴史観である皇国史観を含む











 *《参考》
「大逆事件」
 〔フレズノ不敬事件〕
本島等長崎市長狙撃事件
三教会同決議
大正デモクラシー
ヤフー百科事典「ほんみち」
ウィキ大本教
ウィキ天理教
治安維持法
関東大震災
米騒動
血盟団
血盟団事件
国柱会
斉藤実
〔桜会〕


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