7、坂本龍馬中心摂理


 
維新の奇跡・坂本龍馬

1858年、日米通商条約が調印されると数名の伝道者が米国からやって来た・・・。
ヘボン夫妻、SR・ブラウン、ヘルシッキ・・・200年余り前、固い 鎖国よって閉ざされ、かき消された信仰の炎に再び火をつけんとして・・・

 その頃24才の坂本龍馬――今はまだ「北辰一刀流の目録」を授かったところ。
 自分がなぜ生まれたのか?
 何をすべきなのか?
 何一つ分らないまま、かなたに浮かぶ黒船をボーと見ていた。
 時代は動いて行く。血生臭い空気の中、安政の大獄が始まった。
「身はたとえ 吉野の野辺にたおれても とどけおかまい大和魂」
 この松蔭の辞世の句は彼の門弟達を奮い立たせていく。激しい尊皇攘夷運動が起こりはじめた。大獄の報復として桜田門外の変(1860)坂下門 外の変(1862)などが引き起こされた。
 龍馬も武市半平太の「土佐勤皇党」に入った。だが・・・何かが違うのを感じる。
 龍馬を昇竜に変えたのは何か?
それは勝海舟との出会いだ。
まるで天が「そこに行け」と言っているように龍馬は勝を訪問し、世界情勢を説かれ翻然として入門した。
時勢が「攘夷」を唱える中「開国」を唱え、未だすべての人が「尊王論」か「佐幕論」を戦わせる中、龍馬の胸には「民主主義・理想国家」の夢が宿る。

幕末―――維新の奇跡、坂本龍馬。
その使命の全貌は何だったのか?
今、明らかとなる。



  宣教師フルベッキ
発覚すれば死罪と言うキリシタン禁教下に来日し佐賀藩の英語伝習所
「致遠館」に教えた。大隈重信と副島種臣はフルベッキの教え子である。



<龍馬の使命>を観よ その1

1、 生まれと死
 英雄豪傑が生まれる時にはよく瑞夢譚が語られる。坂本龍馬の出生を彩る瑞夢は次のようである。「母、幸、雲龍奔馬の胎内に入るを夢見、覚め てのち龍馬を生む」(千頭清臣、田岡正枝著『坂本龍馬』より)
 のちの世の人が崇敬してつくるのかも知れないこうした瑞夢譚が事実か,否か?我々には判断のしようがない。
 しかし、彼の背中には馬のようなたて毛があったと言う。

 33才の生涯を終える時、彼の魂は京都から数千里を走って、自分の死を愛妻お龍に知らせている。慶応3年11月15日夜「龍馬が全身を紅に染まり 、血刀をさげて、しょんぼりと枕元に座っていた」(安岡秀聞著『反魂歌』)のであった。また明治37年2月6日、日露戦争開戦前夜のこと、葉山御用邸にい た昭憲皇太后(明治天皇妃)の枕元に「霊夢」となって現れ、当時の新聞をにぎわした。
 この事件から当時すでに忘れられようとしていた竜馬の事跡は一躍有名となり、さらに近年になって龍馬の生き方に心酔する人が多く現れるようになった。
 私もその一人である。少年期の私にとって龍馬は最も尊敬する人であった。
 龍馬の見た夢は「日本を革める」夢だった。幕末のごく短い期間に日本中を駆け巡りながら、近代を明治に送りこんでくれた男である。

 龍馬の魅力の一つは、そのリベラルな思想である。米国型民主主義を目指して走る彼は,その時代にめずらしくキリスト教的でもあった。キリスト教に親和性 をもったリベラリスト坂本龍馬――その姿は民族の記憶に深く刻まれている。
 唯物論者にとっては、坂本龍馬の33才の死も「偶然」でしかない。しかし私にとっては偶然ではありえない。イエス・キリストが33才で十字 架の死をとげたように、完成型民族メシア使命者であった坂本龍馬も33才の無念の死をとげたのであった。刺客に切りつけられ噴出す鮮血の中で「残念だ 、残念だ」と叫んだ・・・・。

2、 キリスト教への親和性
 〔坂本龍馬を中心とした摂理〕の全体像を知るためには龍馬が生きていたなら必ずキリスト教徒になったであろうと言う事を知らなければならない。
 次に幕藩体制について十分に知らなければならないのである。
 
 第一に、龍馬は大政奉還前夜、友人佐々木三四郎と夜を徹して語りながら「もし大政奉還が失敗したら、キリスト教で人心を収斂(しゅうれん)し、幕府を倒し たらと考えるがどうだろうか。なかなか平和的で人間平等の思想で貫かれている。これはいけると思うのだが・・・・」(池田諭著『坂本龍馬』大和書房)という。
 貿易活動を通して欧米人と接しながらキリスト教の長所を感じとっていたのである。当時の多くの人々がキリスト教を邪教と信じている中で、驚くほど透明な見 識であった。

 第二に、龍馬が右手に持って伝道につとめた「米国型民主主義」とは、事実上清教徒の信仰に大きな影響を受けているものである。 すなわちイギリスの専制主義王制のもとで弾圧を受けていた清教徒が米新大陸で1776年、独立国家を設立してアメリカ型民主主義を樹立したの であった。このようにして生まれた民主主義を理想とする龍馬は、キリスト 教に強い親和性を持っていたのである。
 後に、日本における「自由民権運動」の板垣退助は龍馬を師と仰ぎつつ、キリスト教と連動してその運動を進めたのであった。(自由民権論者である 片岡健吉ら、数名が洗礼を受けている)
 龍馬はしばしば農民でも大統領になれる米国民主主義について語り、その結果、西郷隆盛などもワシントンやリンカーンをよく知るようになったという。

龍馬の血縁、縁者
 第三に龍馬の血縁を中心として龍馬の縁者には、後にキリスト教徒になったものが多くいるのである。

 血縁から見るならば、例えば龍馬の死後養子となり家督を継いだ坂本直は後にキリスト教徒となり、それを理由に宮内庁を解雇されている。


坂本直

 その実弟であり、坂本本家を継いだ坂本直寛は龍馬と良く似た顔をしているが、叔父龍馬のデモクラシーを引き継ぎ、明治の自由民権3論客と言われる ようになり、さらに片岡健吉らとともに洗礼を受けたのである。
 直寛は「三大事件建白運動」のさい、投獄されながら信仰を深め、後に北海道に渡り開拓と伝道に生きたのである。この北海道開拓は龍馬の夢でもあった。
 直寛は晩年を監獄伝道に捧げ、偉大な足跡を残している。
1907年、十勝監獄で、直寛は千人もの囚人に「人間を罪から救うために十字架に架かったキリストの愛」を切々と語った。それを聞いていた看守も涙にむ せび、囚人たちからは自分達の罪を悔い改める慟哭の祈りが次々に起こったという。(『聖書を読んだサムライたち』守部喜雅著


坂本直寛

 又、龍馬に命を助けられた従兄弟――山本琢磨は後に日本におけるハリストフ教会の設立、伝道に貢献し、東京神田のニコライ聖堂を建て大司教としてその生涯を終えた。  琢磨は龍馬に救われた思い出を語りながら涙ぐんだと言う。


東京神田のニコライ聖堂 

 「龍馬を斬った男」見回り組の今井伸郎もまた聖書と不思議な出会いをしてキリスト教へと導かれた一人である。この今井の改心の様子は『海舟座談』 の代7話に津田仙の談話が残っている。伸郎が改心した後はそれまで周囲に振りまいていた殺気は消え、他人を見下すような傲慢さのかけらも無くなったと 言う。明治39年には静岡初倉村村長に就任している。

 まだキリスト教徒が1000人に1人程度しかいない時代にこの過密さは異常である。龍馬にはキリスト教的な磁場のようなものがあって,周りをキリス ト教に近づけていくのである。その生き方自体が「仏教の菩薩道」「儒教の仁愛」「キリストの愛」の実践であった。
 今日まで、小説もテレビドラマも龍馬の宗教的側面を無視して来た。
 しかし、坂本龍馬はもし生きていれば、必ず彼自身が洗礼を受けキリスト教徒となっていたであろう。龍馬は日本にキリスト教が入る通路のような人 だったのである。

 
4、 カイン型封建社会
 次に、徳川幕藩体制とはいったい何であったか?知らなければならない。近代史における幕藩体制の位置付けは「封建社会」である。しか し欧米の封建社会や日本のそれまでの鎌倉、室町ともまったく異なる性質を徳川幕藩体制は持っていたのである。すなわちそれは天の側の宗教で あるキリスト教の行く道を完全に遮ってしまった封建社会であった。それを我々は「カイン型封建社会」と呼ぶのである。

 フランシスコ・ザビエルのキリスト教ヒューマニズムに基づく世界宣教によって、1549年日本に伝来した天主教は、わずかな期間に驚くほど大きな 伝道の成果をあげ、1600年頃には推定50万人の信徒を獲得していたのである。
 しかし秀吉のバテレン追放令(1587)についで家康も1612年に全国的に禁教令を敷いたのであった。その後40年に渡り、踏み絵、寺請け制度、 宗門改め、5人組制度などによって徹底的に監視し、迫害と弾圧を加えたのであった。
 さらにその後210年間に渡ってキリスト教日蓮宗不受不施派は徹底的に禁圧されたのである。
 このようにして天の側の宗教を禁圧していた徳川幕藩体制においては、林羅山、頼山陽、 平田篤胤などの神道家、国学者によって聖徳太子に始まる仏教が激しく攻撃されると共に、国粋主義の思潮が成長し、天皇中心主義へと成熟して行ったのである。 又同時に民間において伊勢神宮を参詣する「お陰参り」が流行したのである。この「お陰参り」は買春旅行でもあったので、東海道には売春宿が乱立し、 遊郭の繁栄をもたらしたのであった。

*<江戸時代に発達した売春産業のその後の展開>
さらにこの売春産業は明治になっても、政治家や官僚に賄賂を渡しながら公娼制度として市民権を得ていた。これに対して明治 から大正にかけて「キリスト教婦人嬌風会」が「廃娼運動」を展開したが、まったく効果がなかったのである。
売春宿からの要求を聞き入れ、1909年、当時植民地とし ていた朝鮮半島にこの〔公娼制〕を輸出し、それが第二次世界大戦中の「従軍慰安婦問題」へと続いている。
ただこの流れだけを見ても「従軍慰安婦問題」への官民一体となった関与責任はあると言える。

<「お陰参り」が流行した直後の天災>
こうして「お陰参り」が流行した直後には必ず、天に異変が起こり、大きな反乱、天災・ 飢饉が起こったのである。
「お陰参り」は1650年、1705年、1771年、1830年に流行したが、
1650年代直後には由比正雪の乱(1651)、承応の変(1652)、佐倉一揆、明暦の大火(1657)が起こり、
1705年の直後には、細かい天災が生じながら1730年の享保の飢饉が起こり、
1771年の直後には1780年の天明の飢饉があり、
1830年の直後には1835年からの天保の飢饉が起こり、悲惨な状況が相継いだのであった。

このように神々の崇拝(悪魔崇拝)が流行すると必ず天災が引き起こされ日本全体に不幸な事が起こる のである
さらに1837年、窮民の救済を目指して蜂起した大塩平八郎の乱が起こったが、真理に反した判断をする幕府はこれを 機に日蓮宗不受不施派の全国一斉検挙(天保大法難)に乗り出すのである。

*大塩平八郎は陽明学者であると共に日蓮宗徒であった。恐るべき見識と正義感を兼ね備えた人物であり、日本の偉人ベスト50の一人である。その証拠に 当時幕府は平八郎の悪口をいいふらしたが、大阪庶民の多くはそれを信ぜず、大塩平八郎の偉業を後世に伝えたのであった。
唯物論的歴史学者は「歴史は権力者のいいように作り変えられている」と言う。
しかしそれはウソである。
もし歴史が権力者のものならば、この大塩平八郎の乱の事など詳細に今日まで伝わる訳がない。
歴史の重要な真実は、細々とでも、必ず後世に伝わるように天が働くのである。

この大塩平八郎の乱は〔倒幕の条件物〕として天にとられたのである。また当時の大阪庶民の多くが、平八郎の偉業を伝えた事によって〔条件〕を立てたので 関西には龍馬や桂小五郎のような倒幕志士を応援する気運が高まり、大阪、京都の商人の中には全財産を賭けて倒幕志士を支えた者さえ現れたのである。
ゆえに天的に見るならば、大塩平八郎は時代を変える大きな条件を立てた義人であった。

幕藩体制はこのようにして天の側の宗教を禁圧して悪魔の版図を広げ、強固な身分制度に基づく士農工商えた非人に分けられた差別 社会を造り、極めて大きな苦痛をもたらした社会であった。 それゆえに神の怒りにふれないはずがなかったのである。

5、この時代の善
 神にとってのみならず、サタンにとっても徳川幕藩体制はすでに不要であった。
 従って、この時代の義と善はすべて”倒幕”にあったのである。例えその人物がどのような思想と宗教に基づいて活動しようと、幕末期において幕藩体制を倒そう とする勢力は全て天の側にあるのである。

しかし徳川慶喜が「大政奉還」を受け入れた時点で、〔龍馬を中心とした自由民権論者及びクリスチャン〕と〔神道信者〕がそれぞれアベル・カインとして分立 されたのである。

  龍馬は身分差別の厳しい土佐の風土に育ち、その苦痛を身を持って知っていた。だからこそ、勝海舟に出会い、民主主義の話を聞いて感動し、翻然 として入門したのであった。


6, 道を探す男
ここで少し龍馬の求道過程について述べておこう。
龍馬の思想は土佐藩武市半平太の土佐勤皇党に参加する事で培われた。この時代の龍馬は他の尊王攘夷論者と同じ考えを持っていたが、次第に成長していく。
まず、土佐でもっとも世界の知識を持っていた河田小龍に出会い、ジョン万次郎のアメリカ漂流の話を聞く。やがて脱藩した龍馬は松平春嶽に会って尊王攘夷を厚く語り 「勝海舟と横井小楠が暴論をなし、政を妨害している」と訴えた。すると松平春嶽は2人を紹介したので、龍馬はまず横井小楠と会った。小楠は海軍に力を入れ 開国する事を唱えたので、共鳴し意気投合するのである。

*この時、後に龍馬の構想した「船中八策」を基に「五箇条のご誓文」をつくった由利公正もその場にいた のである。

・・・・五箇条の御誓文の内容
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 さらに龍馬は海舟に会い、その話を聞いて感服し入門するのである。
この海舟と龍馬の世界を見据えた理念「開国・海防・富国・人民議会・人材登用・不平等条約の解消など」はことごとく後の明治政府の基本となる。 藩という狭い意識で尊皇攘夷を唱えていた薩長が、結局は龍馬の示した方向に進まざるを得なくなるのだ。

* 勝海舟  ;主著『氷川清話』『幕末始末』
 海舟は多くの宣教師とも交流を持ち、1871年には「耶蘇教黙許意見」を公にしてキリスト教を擁護している。宣教師E・クラークはアメリカで海舟の伝記を書いて  「キリスト者ではなかったが、彼以上にナザレのイエスの人格を備えた人物を見た事がない」と彼の人格に最大級の評価をしている。


 
<龍馬の使命>を観よ その2

1、縦からなる蕩減条件
 聖徳太子中心摂理において、太子を中心として蘇我氏と上宮王家が一体化しえればただちに天皇改宗が成就されるはずであった。しかし太子は自ら 皇位につく事ができず、推古天皇の改宗も失敗し、さらに蘇我氏が山背大兄王を殺害する事により、摂理は延長されたのであった。
 同一の使命線上にいた日蓮聖人は太子の時代の失敗を蕩減復帰するために、この時代において蘇我氏の立場にいた北条氏(鎌倉幕府)を彼の啓示の下に 帰依させ、「天皇改宗の基台」を造成し、天皇改宗しなければならなかった。しかし北条氏が不信したがゆえにこの時代の摂理もまた成就しなかったのであった。
 では坂本龍馬中心摂理における龍馬の〔民主主義理想〕の「実体基台」となるべきだったのは誰か?
 それは新たに生まれるはずの「新政府」であった。
 それゆえ坂本龍馬の使命期間である約3年(1864〜67)において彼の業績の第一は薩長同盟であった。さらに薩土盟約、薩土芸三藩約定 などを成立させ一介の浪人の身でありながら、倒幕のシンボルとして絶大な影響力を持つようになったのである。

      大政奉還の意味と価値
 さらに龍馬は「大政奉還策」を上奏して、幕藩体制を破壊した後に生まれる新国家を無血革命によって創ろうとしたのである。
 竜馬の「大政奉還策」は彼の師である勝海舟と大久保一翁に種受けしたもので、龍馬は一翁に会った時に「大政奉還と諸大名による議会の設置」を説かれ、大いに 賛同したのである。
 この「大政奉還策」を土佐の後藤象二郎を通して徳川慶喜に献上した。徳川慶喜はこれを受け入れ1867年10月14日「大政奉還」の上表が朝廷に提出されたので あった。
 ところがこの無血革命を快く思わない人々がいた。同14日、討幕の密勅が薩摩の大久保と長州の広沢にあてて下賜されていた。

 新政府は、坂本龍馬を中心として各雄藩が連結し、「大政奉還策」の無血革命によって生まれるはずであった。
 もしそうなれば、龍馬自身が新政府に入らなくても、その影響力は極めて大きなものであったであろう。すなわち徳川慶喜が「大政奉還策」を受け入れた 時点で龍馬は民族的アベルの位置を復帰して、〔聖徳太子中心摂理〕における山背大兄王と同じ立場に立っていたのである。
 ところが山背大兄王に屈服すべき蘇我氏が反発して山背を殺害した事はすでに述べたが、それゆえに、この時同じ位置に立っていた龍馬も〔実体基台〕を失えば死を覚悟 しなければならなかったのである。
「大政奉還」は無血革命の祈りから生まれたものだが、そのため龍馬は孤立した心情を味わなければならなかった。
薩長雄藩は、討幕挙兵の日を待っていた。とりわけ長州藩士は、安政の大獄以下の出来事について徳川幕府に対して復讐心を燃やしていたのである。 龍馬の盟友であった中岡慎太郎さえ、大政奉還に対して皮肉を浴びせていた。(『本山只一郎への手紙』)
 このようにして血を見なければ収まらない性質の討幕派は「大政奉還」をなした龍馬に不信と不満、そして殺意をいだいていたのであった。  彼らが殺意を抱いていたがゆえに、龍馬は目と鼻の先にある土佐藩邸や薩摩藩邸にも行く事ができず、危険を承知で商家の土蔵に潜んだのであった。
 こうして山背大兄王の悲劇は繰り返されたのである。

 この頃の龍馬には暗いものが漂っていたと言う。それは死の予感であった。

宣教師フルベッキから『聖書』の真理を学んだ大隈重信と副島種臣は佐賀藩を脱藩して大政奉還運動に加わった。
後に大隈(1838〜1922)は維新政府の外交官となり、立憲改進党を結成、早稲田大学を創設。黒田内閣外相、1898年憲政党を結成し初の政党内閣を誕生させ、 総理大臣となった。
副島(1828〜1905)は維新政府の参与となり、外務大臣の時には横浜港に入港したペルー船内で奴隷として酷使されていた229人の清国人を救うため日本で特別裁判所 を設けて裁判を断行。清国人奴隷全員を開放し、帰国させた。文明開化の鐘がなる、古き良き時代の輝かしい成果と言える。
しかしここで誤解をして欲しくないのは、この偉業も宣教師フルベッキの献身的な教育があって始めて成されたのである。キリスト教がなければこの偉業もなかった であろう。フルベッキの手紙によれば、大隈と副島は新約聖書の学びに良い成績を残したと言う。


<龍馬の使命>を観よ その3

 1、もし龍馬生きたれば・・・
 すでに論じて来たように、坂本龍馬は33才のイエス・キリスト型の死を迎えなければならなかった。
しかし、もし討幕雄藩が龍馬の無血革命の祈りに共鳴し、「大政奉還」の無血革命を成功させていたならばどうなったか?
 すなわち、龍馬は「船中8策」に基づく新政府―旧幕閣と討幕雄藩の連合によって組織される―の基台の上に立ち得たはずであった。そして彼の その人格的影響力によって米国型民主主義を理念とする国家がこの時生まれたにちがいない。  西郷隆盛、木戸孝允、後藤象二郎など多くの人物と龍馬は親交していた。又海援隊には後の外務大臣陸奥宗光などもいた。さらに龍馬は幕臣、勝海舟、大久保一翁などの 人物を知り親交していた。  もし旧幕閣と討幕雄藩の連合によって組織される新政府が生まれたなら、そのリーダー達のほとんどが龍馬の知人、友人達であった。
 龍馬は「船中八策」において、新政府には入らない意向を西郷達に伝えていたが、その時代のほとんどの活動家達にその名は知れ渡っていた。
 そして民主主義国家を切望していた。
 このような龍馬が生きていれば、すぐに人民議会制が採択され、現実の歴史が辿った藩閥の利権にあけくれた奇怪な明治政府ではなく、民主主義国家がその時生まれたに 違いないのである。

 しかし、現実の歴史は示す。
 龍馬は暗殺され、新政府の主導権は岩倉具視、大久保利通、伊藤博文などの神道信者の手に委ねられた。
 彼らは復古神道家数名を招いて、国の宗教政策を任せた。「廃仏毀釈」は彼らのなした事である。神道を唯一の真実とする天皇絶対性国家が生まれようとしていた。 天の側の宗教を排斥した徳川幕藩体制が育てた悪の芽が育ち形となったのである。
 まもなく木戸は死に、西郷は「西南戦争」と言うつまらない事で敗死し、勝や大久保には政府の方向を決定する重要なポストは与えられなかった。
 一人の人を失ったがゆえに日本は方向を間違えて行った。

2、天皇改宗
 そしてさらに龍馬がキリスト教徒になったなら、その影響はキリスト教嫌いの多かった明治政府と民間の双方においてきわめて大きいものであっただろう。 龍馬が必ず「洗礼」を受けていたであろう事はすでに論じた。
 そして1872年までの4年間において訪れていた天皇改宗チャンスに森有礼中村正直、大隈や副島、宣教師達 と共に、その影響力を発揮してやりとげていただろう。
 しかし龍馬が暗殺された時、彼の歩むべき道は歩み残され、後世へと仮託されたのであった。
 その歩み残された道とは天皇改宗路程に他ならない。


*森有礼『日本の宗教自由』著 キリスト教解禁を唱えた

*中村正直『秦西人に疑する上書』著 キリスト教がすぐれている事を論じ、宮内に一大センセーションを巻き起こしたのである






<参考>
坂本直寛
 龍馬
 ウィキ 龍馬
 ヤフー百科事典 龍馬
 坂本龍馬伝
 坂本龍馬人物伝
 


 ホームに戻る
*********



 

****;
inserted by FC2 system