長成摂理期間(1253〜1864)


      長成摂理期間610年間(1253〜1864)
 日本民族史における長成摂理期間とは、1253年に日蓮宗の歴史が始まってから坂本龍馬を中心とした完成摂理期間が始まるまでのおよそ610年間を そう呼ぶのである。この期間の特徴は日蓮宗実体展開期〕である事と日蓮宗徒の立てたその条件によって伝来した天主教、さらに暗転化点である1650 年頃から210年間つづいた徳川幕府における3次にわたる暗転化の過程にある。

表1



@<サタン分立>400年(1253年〜1650年)
 同時性反復表に示しているように、この期間は前時代である蘇生摂理期間における<荒野の預言者時代>と同時性の時代である。また同時に北イスラエル王国に 神が預言者達を派遣し 北イスラエル10部族を連れ戻そうとされた期間の実体的同時性の時代である。南北王朝分立時代において、イスラエル民族が、神殿理想に相反する立場に立つ たびに、神は、継続して、四大預言者と十二小預言者を遣わされて、彼らを励まし、内的な刷新運動を起こされたのである。しかし北イスラエルは預言者の言葉 を聞かずバアルを崇拝し悔い改める事なく滅ぼされてしまったのである。
 ゆえにこの400年期間は、神が預言者を遣わされた<サタン分立>の期間である。

前時代である蘇生摂理期間には行基、鑑真、道鏡、最澄などの仏教徒が「荒野の預言者」の役割を果たしていたのであった。
 この時代においての「荒野の預言者」の役割を果たしたのは日蓮宗徒である。 そして日蓮聖人中心摂理「竜口法難」において日蓮宗徒は「1000人の内999人まで落ちた」がゆえに〔実体基台〕を立てる事がで きず、そのため〔偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件〕も立てられなかったので、日蓮が佐渡に流され〔信仰基台〕を再び立てたのであった。 従って日蓮宗徒達はその後の〔日蓮宗実体展開期〕において、祖師日蓮同様に強い迫害の中で〔偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件〕を立てなければ ならなかったのである。
 日蓮宗が迫害と殉教の宗教となった理由は実にここにあるのである。

〔偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件〕
鍋かぶりの日親
日蓮宗の歴史には、六老僧や日興門流新6人、すでに述べた日像(1269〜1342)の他、日尊(1265〜1345)、日祐(1298〜1374) 日奥(不受不施派開祖、1565年〜1630年)などの多様な人材が生まれたが、ここでは その代表として祖師同様に国家諫暁(いさめ、さとす)を行った人物として、室町時代の俗称”鍋かぶりの” 日親(1407〜88)について述べよう。

 1426年大法宣伝の願をかけた日親は命がけで諫暁をなす力を得る事を願って、100日間の100巻唱和、満願後、自らの指の爪をはぎ、そこに針をさし 、さらに熱湯につける苦行を繰り返した。自身の覚悟を天に示したのである。
 時の将軍足利義教は天台密教の中で育ったため日蓮宗に不快感を示し、2度目の諫暁において『立正治国論』を浄書し終える前に日親をとらえ拷問を加える。  炎天下の火責め、逆さつり水責め、陰茎の串さし・・・等々。
 後の天主教徒が受けた苦しみを日親は孤独に乗り越えて行った。
 ある日、庭に引き出された日親は熱湯を頭から浴びせられ、これが”鍋かぶりの日親”の由来となる。日親は「南無妙法蓮華経」の唱題を続ける。義教は「念仏 を唱えろ」と命ずるが、屈さないので舌を切り取った。
 1441年6月26日、日親の「法華経の行者を苦悩させた罪業により、100日以内に災いが生じるであろう」との預言通り、義教は赤松満祐に殺害された。  洛中ではこのことが広まり将軍、諸臣、恐れをなし、日親を放免。
 こうして日蓮宗は京に弘まったのであった。

日蓮宗徒が<蕩減条件>を立てながら、京を中心として日本全体に弘まった様子が見て取れるはずである。このようにして日本民族が長きに渡り神々を崇拝した結果 身につけた性質を「偶像崇拝の心性」と呼び、これを克服するための蕩減条件を〔偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件〕と呼ぶのである。

参考
高校生のための歴史
ウィキペディア三経義琉
日奥



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