第4章 後半・10部族蕩減摂理歴史
日本史には多くの謎がある。
*古代では聖徳太子はなぜ天皇位に就けなかったのか?
* 道鏡はなぜ天皇位に就こうとしたのか?
* そもそも仏教の摂理的意味とは?
*日蓮宗のような強烈な宗教が生まれたのはなぜか?
*天文法華の乱はなぜ起こったのか?
*なぜ龍馬は暗殺されなければならなかったのか?
*聖人である賀川はなぜ無名に近いのか?
*幾多の犠牲を出しながらも、なぜキリスト教は広まらなかったのか?
などである。
この論文で全てを解き明かすつもりである。
[序] 原理から見た歴史の法則性
1、 摂理は3段階にわたって延長されうること。
そのみ旨成就の可否は相対的だが3段階目は絶対的である。(P440〜441)
2、 歴史には必ず中心がある。
3、 アベルとカインが分立される。
4、 ある人物を中心とする摂理は神の責任分担とその人物の責任分担が一体となって初めて成就されるのである。従ってその人物が責任分
担を全部果たさないためその御旨が達成されない時には、時代を変えて他の人物を立ててでも必ずその御旨を成就するように摂理されるのである。
このようにして復帰摂理は延長して行くのである。(P440)
5、 その時、その人物は過去の同一使命者の再臨を受け、その御旨が成就するように共助を受ける。(P231)
6、 同一使命者は過去の同一使命者の失敗を一時に横的に蕩減復帰しなければ、その使命を継承し完遂することができない。(P442)
7、 3,4,7,12,21数などの原理数がその10倍数、100倍数と共に、それぞれ原理的な意味をもって生じなければならない。(P445〜451)
8、 同時性時代は、同型の螺旋系を作るが完全な相似形を作るわけではない。(P438)
以上の8項目は
『原理講論』の中から、あらゆる歴史に適用しうる法則性として
抜き出したものだが、日本歴史にも完全に適用されることになる。ただしひとつひとつ説明するとすれば、
とてつもない大作となってしまうので、重要な点以外は説明せず読者の推量にまかせたい。又、高校生程度の歴史知識で常識となっている事
柄についても、同上の理由によって割愛させていただいた。
本作を探求し著述するあらゆる過程において“祈り”求めることが必要であった。又多くのものを“犠牲”にしなければならなかった。
ゆえに読者にも“祈り”と“犠牲”は必要かも知れない。
魂は真実を学ぶ力をもっている。暗闇で明るい方を見ようとすると、身体全体を動かさねばならないように、心の目で静かに真実を見つめるた
めには、魂を俗世間から引き離さねばならない――プラトン
1、概略
紀元前14Cカナンに入ったイスラエル民族はフェニキア地方一帯に広まっていたバアル崇拝を幾度となく続けた。前10C、栄華を極めたソロモンが
1000人の妻達の誘惑によって、他の神々香を焚き、犠牲を捧げると神は3度目ソロモン王に現れて言う。「これがあなたの本心であり、私が命じた契約と
定めとを守らなかったので、私は必ずあなたから国を引き離してそれをあなたの家来に与える・・・」(列王上11)
こうして国土は分断される事になった。
ソロモン王の神殿建設に重い労役と重税を課せられたエフライムを中心とする10部族――すなわちルベン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、ナフタ
リ、ダン、ガド、アシエル、マナセ、エフライム――はユダの血統に対する反発も相まってヤラベアムを王とする北イスラエル王国を建設、ここに南北王朝分
立時代がはじまる。神はヤラベアムに「わたしの定めと戒めを守れ」(列王上11/26〜40)と命じるが、ヤラベアムはこの戒めを守らずベテルとダンの街にバア
ルの祭壇を築いてこれを祀り始めたのであった。こうして北イスラエル10部族の罪の歴史が始まった。神は預言者をつかわしてその刷新を図られるが王も民衆も悔い
改めることなくバアルを始めとする崇拝し続け、ついに260年後、起源前722年アッシリアの侵略を受け滅びるのである。その後一部は南ユダと合流したがその大
半はアッシリアに移住させられた。そしてアッシリアが滅亡した後その行方は分らなくなってしまった。
20世紀になって[失われた10部族]を探索する人々は東洋の東端、不思議国日本に辿り着いた。その国の人々は古代イスラエルの風習を保ちながらも、自
分達の出自をまるで記憶していなかったと言う点でも不思議な国であった。
日本列島へ
シルクロードを東上した10部族は起源前3Cには朝鮮半島南部に到達していたものと思われる。そして日本列島に入り始めた。そのころの縄文人
の人口は10万人程度だったという。先住民の人口密度が低く、多湿、温暖なその気候は米の栽培に適していた。当時の海運技術においてそれは危険な
船旅ではあっただろうが、続々と渡来するようになる。こうして入り口となった九州にはいち早く集落が生まれ、さらに小さな国家郡が生まれるようにな
った。西暦57年と107年の2度、倭の奴国は後漢に使者を送り、印綬をさずかっている。
(『後漢書』)
さらに
『魏志倭人伝』には3Cには邪馬台国と呼ばれた連合国があった事が記録されている。すでに蚕を飼い絹織物を朝貢品として送っている事から考え
て、それなりの文化を持っていたものと思われる。
大和朝廷の成立
前2Cには青森にまで遺跡があり、この時期急速に列島の人口は増加し日本列島全
体に広がって行ったのである。畿内においてもすでに弥生時代初期の稲作跡が発見され
ている。三輪山麓に王朝が生まれたのがいつごろか?は分らない。しかし4Cにはそれ
なりの勢力に成長していたのであろう。
『日本書紀』によれば、4C後半、神功皇太后
は朝鮮半島に遠征し新羅を降伏させたと言う。もちろん、この「降伏させた」はウソで
あるが、半島に軍を送ったのは「高句麗好太王碑」にも書かれており、
『新羅本紀』で
も確認できる。つまりこの頃には一定の勢力に育っていたのである。この時代半島との
交流は盛んになされており、相変わらず百済とは友好関係を結んでおり、新羅とは緊張
関係にある。大伴金村は継体天皇の時、任那4県を割譲した責任をとらされて引退させ
られた。6C、国造磐井の反乱(527年)などによって氏姓制度・氏神崇拝社会に混
乱が生まれ、ほころび始めた頃
仏教が伝来した。
6C中頃、百済の聖明王が日本との関係を深めようと仏像や経典を献上した。そして
大連・物部守屋と大臣・蘇我稲目が仏教の受容を賭けた戦いをはじめたのであった。
仏教伝来年
仏教の伝来した年について、従来538年説と552年説があるが、
聖王が523年に即位したことはほぼ確実となったため、これに従えば聖王26年は548年にあたり、これを仏教公伝年とする説も浮上
しており、本書では単に中頃とする
仏教伝来
紀元前5C、シャカは菩提樹の下で忽然と悟りを開く。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3法印、因縁生起説、中道の思想、善悪の理法などその悟り得た内容を一
言で言い表す事は難しいが、それはバラモン教の階層社会に革命をもたらした。やがてイエス・キリストの来臨は世界に新しい恵沢をもたらす。起源後、衆生済度
を目指すインドの大乗仏教の瞑想家達は次々と新しい啓示的イメージを封入した経典を生み出して行く。やがてその経典は中国に、そして
朝鮮半島を経て日本にまで伝来したのであった。
伝来当時,仏教の高遠な哲学的真理性は理解されえるものではなく、ただ仏も菩薩も異国の神々として認識されていた。
聖徳太子
イエス・キリストの勝利によって世界的に与えられた恵沢は、木や石を神としこれに仕えていた日本民族にも注がれていた。610年期間を悪魔に奪われていた
日本民族は610年を民族的に蕩減復帰したのち聖徳太子を迎える。
こうして聖徳太子は2つの主要な使命をもって生まれたのである。すなわち仏教を広め、
@神々への崇拝をやめさせ、A天皇を改宗し、仏教を国教化していく事である。
そしてAには2つの道があった。すなわち、
(イ)自ら天皇位に就くか、(ロ)推古天皇を改宗するか、であった。
教科書的に言えば、用明天皇の子として生まれた太子は、叔母の推古天皇の即位と共に摂政となり、遣隋使の派遣、冠位12階や17条の憲法の制定、史書の選
録などを行い、中央集権体制の整備に力を注ぐと同時に、仏教に心を寄せて寺院の建立や経典の高説をなした、ということになる。それはその通りだが少し太子の
人生のドラマに踏み込んでみる事にしよう。
2,[聖徳太子中心摂理]
太子の記録と太子信仰
聖徳太子は574年、用明天皇と穴穂部間人皇女の長子として出生した。
その厩戸王子と言う名前からわかるように、馬小屋で出生したという。
太子に関する記録は
『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』などであり、多くの知恵と奇跡譚と共に、12歳の時、百済僧日羅が太子を拝謁し
「敬礼二救世観音伝し灯東方ノ栗散王三」と挨拶したと
『扶桑略記』は伝えている。
後世において太子信仰は盛んとなり、太子の伝説を集めた
『聖徳太子伝暦』は平安末期に集大成されている。
太子は、仏教の紹介者であり、護持者であり、仏教興隆最大の功労者である事から「日本仏教の父」と呼ばれ、また「法皇」「聖王」とも呼ばれた.
やがて太子を観音の化身とする信仰に発展し、天台宗の最澄も太子を慧思(中国天台宗二祖)の生まれ変わりとして尊崇した。真言宗でも空海を太子の
生まれ変わりと位置づけ、禅家でも太子が片岡山で会った旅人を達磨の化身として敬い、特に親鸞は太子を「和国の教主」と讃えて
「太子和讃」を作り、
やがて寺院の本堂には太子孝養画像を掲げた。日蓮も太子を法華経を弘法した高祖として貴んだ。
武将達も太子が物部守屋との戦いで勝利を収めたことから戦勝の神として、武運を祈願する対象となった。
また大工や瓦大工、左官、石工などの職人達も「太子講」と呼ばれる組織をつくり、職人の守護者として太子を崇めた。
しかしその後、国学や水戸学が隆盛した江戸中期以降、1945年の敗戦に至るまで神道家、天皇崇拝儒教家、国粋主義者によって仏教を輸入した太子は非難さ
れたので、太子信仰もこの時期低調となったのであった。しかし昭和期、日本を代表する聖人として高額紙幣の顔になるなどしてその人気は今日まで続いている。
太子が生まれる前
太子が生まれた時代は朝鮮政策の失敗から大伴金村の失脚、筑紫の反乱などが起こり、氏姓制度の弱体化の後、仏教が伝来し(552年)、蘇我氏と物部氏の対立
が激化した時代であった。
蘇我稲目が仏像を安置し、礼拝を始めて一年後、疫病が流行し物部尾輿は「疫病の原因は、稲目の仏教崇拝にある」と非難した。
蘇我稲目は「原因はむしろ、仏教拒否の非礼にある」とやりかえす。
570年、その稲目が死去すると物部氏らは、向原の仏殿を焼き、百済王献上の仏像を難波の堀江に流す。
その4年後太子は生まれた。
釈迦三尊像
対立は闘争へ 蘇我(仏教)VS 物部(神道)
583年、再び疫病が全国に流行する。蘇我馬子はそれを「仏像を破断した祟りである」と言う。翌584年、馬子は百済から鹿深臣が持ち帰った弥勒の像をも
らいうける。勇気づけられた馬子は豊浦の石川の家に仏壇を安置し、善信尼をはじめとする3人の尼僧に供養祈祷せしめ、仏舎利を建てる。
585年、物部守屋は中臣勝海と共に敏達天皇に「廃仏」の決断をせまる。せまられた天皇は、彼らに「廃仏」の命令を下す。物部守屋と中臣勝海は仏塔
を切り倒し、仏殿を焼き、仏像を捨て、さらに尼僧3人を監禁する。しかし疫病流行は終わらなかった
敏達天皇は血縁的に物部氏に近かった
次の用明天皇は蘇我氏の血縁であった
586年、敏達天皇と馬子が相次いで発病した。天皇は崩じる。馬子は快癒する。
不安な世情は一転して馬子に味方しはじめる。「国神の権威は、他国神(仏)に及ばず」と。
587年、聖徳太子の父親である用明天皇が即位した。この善良だが弱気で病弱な天皇は、仏教に帰依したがっていたが、それを決断せず、群臣の議定にまかせてしまった。
当然、議定は割れる。
物部氏と蘇我氏は互いに軍勢を集めて、今や一触即発のにらみ合いを続けていた。思想
と宗教の対立は激化し、もはや話し合いや妥協の許されない武力闘争へと発展していた。
用明天皇の死後戦乱が始まり、戦力に劣る蘇我氏は3度敗退し窮地に立つ。太子らは信貴山に逃げ込む。敗色は濃厚だった。そこで,太子は自ら白膠木(ぬるで:
ウルシ科の落葉小高木)
で四天王像(仏教での守護神とされる持国天,増長天,広目天,多聞天)を彫り,ひょうたんのような形に結っていた頭髪に入れた。そして,太子はこの戦に
勝ったなら四天王のために寺塔を建立すると天に宣言する。馬子もそれに習い同じ事を誓う。
奇跡が起こる。太子の信仰は蘇我氏と諸豪族の連合軍の士気を高め、再び体勢を整えた太子は,河内の渋河で守屋の軍勢に猛攻撃を行った。この時守屋は木の上
から矢を放っていたが,蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)から放たれた矢が命中,守屋は木から落ちた。
すかさず
秦河勝(はたのかわかつ)が守屋の首を切り落とした。
こうして大逆転して物部氏に攻撃を加え、ついに戦勝する。もしこの時、蘇我氏が敗北していたなら、後
の日本の仏教史はなかったであろう。そしてもし蘇我氏がその後失敗しなければ蘇我氏の名前は永遠の金字塔として語り継がれていたであろう。
588年明日香法興寺の着工。諸豪族も仏教受容を表明し氏寺を建て始めた。今や仏教輸入の最初の戦いに勝利したのだ。
《第一次天皇改宗路程》
第一次路程において[天皇改宗の基台]を立てるべき中心人物は蘇我馬子であった。彼は太子の信仰に習い四天王像に造仏・造寺を誓い、40年
に渡って対立した物部氏を滅ぼした事により[40年サタン分立基台]を立てたのであった。日本民族は、馬子が立てた[天皇改宗の基台]の上に、彼に従う立場に
いたので彼らは「神々を崇拝する罪悪の世界」を清算して「仏教理想国家」路程を出発する準備ができたのであった。
次に率先した信仰によって勝利をもたらした聖徳太子の菩薩性を(わから
ずとも)懸命に悟って、合議の際に強く太子を天皇に押すべきであった。太子はまだ14才ではあったが、先帝である用明天皇の長子であり、馬子が押したなら豪族達はみなこれ
に従ったであろう。だが太子ではなく愚昧な崇峻天皇を押したがために後に暗殺するはめになったのであった。この馬子の不信のために仏教伝来以来蘇我氏が立ててきた
[天皇改宗の基台]はサタンに浸入された結果となり、太子は天皇位に就く事ができなくなったのであった。
ところで、もしこの時、14才の太子が天皇になったとしても直ちに改宗したわけではない。[仏教興隆の詔]を出し、信仰を広め、多くの豪族達が改宗した後
、おそらく息子の山背の代になって初めて改宗できたであろう。
天皇位に就けない太子
崇峻天皇を蘇我馬子が暗殺した事を察した豪族達は蘇我氏の血縁ではない天皇を擁立しようとしていたのである。
皇太后(炊屋姫)が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力
を中心に強まったために、馬子と皇太后がその動きを
抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのである。だが、竹田皇子は間もなく死去したので、最も近い血縁である厩戸を皇太子としたのであった。
翌年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は推古天皇の同母兄の用明天皇、母も異母妹(かつ生母同士が実の姉妹
関係)の間柄であり、竹田皇子亡き後において厩戸が天皇にとって最も信頼のおける血縁者であった。天皇を暗殺した馬子はその後数年間は太子にまかせ、豪族達の
反発を怖れて政治の表舞台から一歩退いていたので、その後20数年は太子色の強い政治がなされたのである。
太子の業績を見る
聖徳太子の研究者の中には「従来、聖徳太子の業績である「冠位12階」「17条の憲法」「遣隋使の派遣」などは太子の実績では無い」と主張する者もいる。
しかしその証拠は何もない。津田左右吉のように何の証拠も示さないでただ断定する権威もいる始末である。
しかし『日本書記』や法隆寺の記録などの文献以外にも、太子の業績であるとする証拠は多くあるのである。
冠位12階に見る太子の発想
例えば「冠位12階」は生まれつきの身分(臣、連)を超えて低い身分の者でも有能な人材を採用する事を目指したものである。このような法を造る動機と発想は同時代
の権力者である推古天皇や蘇我馬子には無いが太子にはある。
太子は仏教の伝道の過程で秦河勝のように身分は低いが頭が切れる有能な人材がいることに気づいていたのである。そのような若者達に囲まれていた太子は彼らのような
身分は低いが有能な人材が埋もれるのを惜しんで「冠位12階」を制定したのであった。こうして登用された人材には秦河勝、小野妹子などがいる。
またその発想が[バラモン教に対して「平等」を唱えた仏教]的である事は言うまでもない。生まれつきの身分が人間の価値を決めるものでは無い。つまりこの仏教思想に通じて
いる人物でなければこのような改革的発想は生まれないのである。推古天皇や蘇我馬子には発想自体が不可能ではないだろうか?ゆえに太子がかかる改革の主役であったのは間違
いないところである。そしてこのようにして朝廷制度を変えて行ったがために、蘇我氏の利害にも触れていたのである。
蘇我蝦夷の不安と憎しみ
蘇我蝦夷は大臣・馬子の息子であり、身分から言えば朝廷の中で最も重きを置かれるはずであった。ところが、太子の身分に捉われない人材登用は権力の世襲制
を否定して、蝦夷からその地位と権力を奪うものであった。それゆえ蝦夷は太子の仏教的改革を憎んでいたのである。その憎しみは蝦夷の息子入鹿が、いとこである太子の息子山背
大兄王子を責め殺した事に現れている。
ところで1200年後、太子と似た発想をした者がいた。彼は「天下の人材を広く求めよ」と述べた。
聖徳太子と坂本龍馬の発想の共通点
太子と龍馬は1200年余の時を超えて、新しい国を作るために、よく似た発想をしている。
しかし太子の時代に「広く人材を求める」事が蘇我氏の利害に係わり、その反感を買ったように、龍馬の時代にも藩閥の
利益を求める人々は龍馬の民主
主義理想を快く思わなかったのであった。
龍馬は太子と同じ原型を背負い、同じ使命の延長線上にいたのである。
《第2次天皇改宗路程》
馬子は太子を天皇につける事なく、ただ太子は摂政に就任したに留まったので、太子は、
3宝興隆を宣言し、法隆寺や四天王寺を造
り、仏舎利を収め、秦氏など伝道する事により、蘇我氏の立場に立って[天皇改宗の基台]を再び立て推古天皇に3次に渡って仏典を講義し改宗されようとしたのであった。
598年太子は推古天皇を自宅に招き、
『勝蔓経』を講義する。
また607年には
『法華経』を講義したのである。
こうして推古天皇への講義から生まれたのが
『三経義琉』であり
「法華経」を中心として「維摩経」「勝鬘経」を講説したのであった。
しかし日神アマテラスに仕える斎女である推古天皇はその日神を捨てることができずむしろ、607年
『神祇崇拝の詔勅』を出して熱心に仏教を伝道する太子に水
を差し、
摂理に逆行したのであった。
悲嘆の晩年
蘇我馬子は「天皇改宗の基台」を立て太子を天皇位に付けた後はその忠臣、弟子として太子仏教の伝道に励むべきであった。しかし蘇我馬子の不信により皇位
に就けなかった太子はやむなく低位の者達に仏教を伝えながら「天皇改宗の基台」を立て、推古天皇を改宗されようとしたのである。本来蘇我氏は、太子の「仏教国
家理想」の夢に他のどの豪族よりも率先して協力するべき立場にいたのであった。この時代、仏教輸入の闘いを同志として共に闘い勝利を喜びあった蘇我氏こそ、太子の
理想に最も近かったのである。それゆえに太子の仏教的政策を身命を賭して協力した上で、太子と共に〔推古天皇の改宗〕を努力すべきであった。そうすれば、いかに
斎女として日神に仕える推古天皇といえども改宗する事ができたのである。しかしすでに述べたように、蝦夷は
自己の保身に流れ、太子の理想に協力するどころか、太子の
改革によってその権力と地位を失う事を怖れたのであった。
『日本書記』には推古朝以来、蘇我氏が宮中ではなく、自宅で勝手に大臣の位を子から
孫へと譲る記事が見られるが、それは蘇我氏がその地位に執着していた事を表しているのである。その姿を見ながら「世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり」と嘆息
された太子の胸中はいかばかりであっただろうか? 太子は晩年を夢殿にこもりがちになりただ来るべき仏国土を祈られたのである。
619年、病を負いながら、推古
天皇の問いに答えたものが『4節願文』である。太子が仏教を興隆させるために4つの願いを天皇に奏上したものをいう。@代々の天皇と国家の安泰を祈って法隆寺・四
天王寺・法興寺・法起寺・妙安寺・菩提寺・定林寺の7ヶ寺を興隆すること。A法隆寺の僧侶は法華、勝鬘、維摩の3部経を講讃することB太子が創建した寺院へ俗権力
が介入しないことC大和の熊凝に建立した寺院の護持を願うこと。
こうして仏教国家建設の夢を後世に託されながら、622年、晩年の7年間を瞑想と伝道に過ごした太子はその生涯を終えた。
遺言の言葉は山背大兄王に伝えた「諸悪莫乍、諸善奉行」(善をなせ、悪をなすな)であった。
法隆寺・夢殿
《第三次天皇改宗路程》
この時代、「天皇改宗の基台」を立てるべき中心人物は山背大兄王であった。山背は太子の訓戒を受け太子仏教の後継者となる事で「信仰基台」
を復帰し、民族的アベルの位置を確保することができたのである。
そしてカインの立場にいた蘇我蝦夷、入鹿の親子が太子仏教を受け継いだ山背に従順に屈服し、「実体基台」を立てる事ができたならそれが「天皇改宗の基台」となり山背
自身が皇位に就く事により天皇改宗が成就するはずであった。
しかし蘇我蝦夷が太子に不信したように山背に不信したので、山背は推古天皇の死後、後継者問題が
くすぶると田村皇子を立てようとした蝦夷に直接会ってこれを思い留まらせようとしたのである。しかし蝦夷は逆に山背を後押ししていた境部臣摩理勢を滅ぼしたので
あった。太子が推古朝で推古天皇を改宗努力した21年間を太子の死後の21年間をもって蕩減復帰した山背は再び皇位に就くチャンスが訪れたが、蘇我氏が「実体基台」
を立てる事ができなくなった結果、「天皇改宗の基台」を造成することができなかったのである。サタンは日本民族に対する神の摂理の目的が
民族メシア一人を立て「天皇改宗」する事であることを知っている。ゆえに日本民族が全員仏教徒になろうとも天皇改宗させないために山背を殺害しようとしたの
である。
643年、蘇我入鹿に急襲された山背大兄王は「ひとまず逃げ延び、東国に行き、領地の乳部を根城として兵を集めれば必ず勝てます。」と述べる三輪君文屋に「そうすればいかにも勝
だろう。しかし我が身のために人々を苦しめることはできない。我が身を入鹿に与えることにする。」と述べ、23人の家族ともども自害して果てたという。
この壮烈な自己献身の行為によって山背は父に教わった菩薩道を歩み後世に望みをたくす条件としたのである。
そしてそれからちょうど610年後日蓮聖人がその道を歩き始めた。
3,<サタン分立400年>と<暗転化210年>
聖徳太子を中心とする摂理が失敗に終わったので摂理は延長されたのである。
しかし仏教の輸入は当時の日本民族にとって大きな精神革命であった。仏教の
「因果応報」の教えは道徳の観念を高め、仏教の平等観は人間の個性に対する自覚を深めたのである。又、聖徳太子の「17条の憲法」を基礎とし、唐の体制に習った
律令制度が作られ、鎌倉幕府の成立によって消え去るまで国家の法律として機能したのであった。
こうして当時としては斬新な古代国家が生まれたのであった
<サタン分立400年>と
<暗転化210年>をそれぞれに説明していこう。
<サタン分立400年>期間
神は、神々を崇拝して罪を犯した北イスラエルの民10部族にエリア、エリシャなどの預言者を遣わして<サタン分立>の摂理をされたのであった。しかし10部族は
悔い改める事なく、ついに滅ぼされてしまったのである。
ために蘇我氏はこれを蕩減復帰するために、仏教信仰を立てて物部氏と闘争し、これを打ち滅ぼす<40年サタン分立期間>を勝利した。
しかし太子を天皇位に就けるなかったばかりか、不信し太子の一族を滅ぼしてしまったので、この40数に再びバアルが侵入する結果となってしまったのである。
ゆえにこの期間は、エリア、エリシャなどの預言者を遣わして失われようとした北イスラエルを連れ戻そうとされた期間と蘇我氏が物部氏を滅ぼした<サタン分立>
期間を一時に横的に蕩減復帰した期間であったと言える。
こうしてエリアやエリシャと同一の使命を持って行基、鑑真、道鏡、最澄などが出て、それぞれこの時代の
<荒野の預言者>とし
て
<サタン<分立摂理>を行ったのである。
では、その詳細を見てみよう。
まず
行基は、
「僧尼令」に反して、民間布教に乗り出し
貧民を助け、橋を架けるなど多くの事業を行ったのであった。行基に敵対する朝廷は、712年行基の行動を阻止する法令を出したが、官寺仏教内からも
道慈が出てこの法令を批判し、
これを助け、731年には弾圧を緩和する詔が出されたのである。
*「僧尼令」
「僧尼令」は民間への自由な布教を禁止するなどした悪法であった。
仏教を世俗の権力の支配下に置こうと言う「僧尼令」は、昭和初期の悪法「宗教団体法」と軌を1にしているのである。
さらに熱心な仏教徒であった聖武天皇は743年
「大仏造立の詔」を出し、この基台の上に749年には
天皇が3宝の奴である事を宣明することによって推古天皇の時代(594年)の
「3宝帰依の詔」を踏襲したのである。こうして仏教に屈服した天皇は行基を
最上位である大僧正につけたのであった。
* 大仏理想
多くのキリスト教徒にとっては、先の太子の四天王像もこの奈良の大仏も単なる{偶像崇拝}に見えるのかも知れない。しかし仏像はその背後の仏教を象徴しているのである。
ゆえにそれはソロモン王の神殿理想と同様に必ずしも{偶像崇拝}とは言えないのである。ソロモン王の神殿理想が信仰を失わない限り光輝いていたように、奈良の大仏理想
もまた信仰を失わない限り光輝いていたのである。しかし暗転化点以降、末世の僧侶の堕落はいや増し、大仏理想は地に落ちてしまったのであった。
次に鑑真は6度の失敗と自身の失明と言う艱難にも耐えて来日し、
三戒壇を設立し、あくまでも官寺仏教内の移譲であったが世俗権力から切りはなした。これが後
の最澄の
大乗戒壇設立運動へと継承されて行くのである。
*鑑真は僧伽(サンガ)をもたらした。僧伽(サンガ)があって始めて僧侶は持戒することができるのである。
次に763年大臣禅師となった道鏡は、聖武天皇の娘である孝謙(称徳)天皇の帰依を受け、三代に渡って聖徳太子の時代の失敗を蕩減復帰した基台の上に立っていたので、
この時彼を天皇に就けようとする摂理が生じたのである。しかし推古天皇が聖徳太子に皇位を譲らなかったように、孝謙(称徳)天皇も道鏡に皇位を譲らないまま崩御したの
であった。
*孝謙(称徳)天皇と道鏡が肉体関係にあったという説があるが、もしそうであれば孝謙(称徳)天皇は道鏡に還俗を求め、婚姻すればよかったはずである。
しかし起こった事件は婚姻ではなく「道鏡を天皇に就けよ」と言う神託であった。それは当時の人達には理解し得ない摂理的事件だったのである。
空海と最澄
比叡山延暦寺を開いた最澄は『法華経』を中心経典とし、聖徳太子以来の「仏教国家理想」を正しく受け継いだアベル型人物であった。対して平安京貴族の怨霊信仰
によって人気を博した空海の真言密教は『大日経』を中心としたこの時代のカイン型仏教であった。ゆえに空海は、へりくだって空海を師と呼んだ最澄に、逆にへりくだり、最澄
を師として天台の学を学び、最澄の「仏教国家理想」を共に歩くべきであった。しかし空海は増長して自己の教学である真言密教を上位に置いて「法華経」の示す仏教
国家理想を軽んじ、最澄と歩みを共にしようとはしなかったのである。
807年外護者であった桓武天皇を失い、弟子泰範の去就を巡って友であった空海と離反した最澄は関東に伝道の旅にでる。法相宗の徳一
との論争を通して自己の教学に自信を持った最澄は825年から「大乗戒壇設立運動」に身を投じ、死後(822年)これを
勝ち取ったのである。
こうして仏教徒は仏教的権威を持った教団を持つようになり、天皇改宗可能性を有するようになったのである。
<暗転化210年>
1052年、当時の人々はこの時代を<救いの無い末法(末世)>に入ったとして怖れおののいていた。
荘園制度が乱れ、律令の秩序は次第に失われ、戦乱が続き、天災と飢饉の中、天の立てた宗教である仏教は堕落し、最澄の祈りの中で打ちたてられた比叡の法灯も今や
消えかけていた・・・。