第三章10部族罪障蕩減摂理歴史

人類歴史は、生きてはたらいておられる神の御手による1貫した摂理によってつくられて来た。 日本史も当然、神のはたらきによって進んできたものと見なさなければならない。
すでに第1、2章において言及したように、日本民族が北イスラエルの10部族の子孫であるならば、当然その罪によ って引き起こされた再堕落から、その罪を犯した以前の立場に戻るための蕩減復帰摂理が始められたはずである。
今日まで日本歴史に対する史観は、戦前の歴史教科書に載っていた皇国史観と唯物史観しかなかったのである。これに対して 1978年益村公俊氏による摂理史観として『日本の希望』が発刊された。
この歴史観は日本歴史の中心的流れが的確につかめているという意味で画期的なものであった。しかし「日本民族は10部族の 子孫である」という事が解らなかったので、日本史の特殊性と隠れている意味を読み取る事はできなかった。またもし日本史が 120年行程の反復であるとしたならば、そうなる理由が言及されていなければならない。
本書は「日本民族は北イスラエル10部族の子孫である」という観点から日本史を見つめ直したものである。この観点を導入する 事によってはじめて日本史の意味が明確に読み取れ、生ける神が何を求めておられるのか?知る事ができる。

* 皇国史観――国家神道に基づき、日本歴史を万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国の歴史として描く歴史観
1、〔日本歴史の摂理目的〕

1、ヤラベアムの罪とその蕩減条件
 『聖書』によれば、南北王朝の始まりと共に、ヤラベアム王に誘導されながら北イスラエル10部族は、バアル崇拝やアシラ− 崇拝などの罪を犯した。要約してみよう。

ソロモン王の神殿建設の際、重税と強制労働に悩まされた10部族は、次 のレハブアム王の時代、パレスチナの肥沃な北の区域を支配し、ヤラベア ムを王とする北イスラエル王国を建設した。(列王記12)神はヤラベアム に現れ「私の定めと戒めを守れ」と勧告するが彼は守らなかった。
『原理講論』P479にこの様子が要約されている。すなわち、「ヤラベアム はダビデ様な篤い信仰をもっていなかった。彼は(北イスラエルに神殿がな いので民衆を引き付けるために)ぺテルとダンの町に「金の子牛像」を安置し その礼拝を強要した。このヤラベアムの罪以来、北イスラエルの19人の王 達は皆これにならった。神は多くの預言者を遣わしたが、彼らはバアルを中心 とした邪神を崇拝し続けて悔い改めることがなかった。」
  ヤラベアムの罪以来260年後、北イスラエルはアッシリア帝国により侵略 され滅ぼされるのである。この時一部は南ユダ王国の2部族と合流し、一部 はサマリアに残り、多くはアッシリアに移住させられた。
それから約150後に記された列王記に「彼らはまだそこにいる」と記録さ れているのを見れば、アッシリアに連行された10部族がまだ生存していた のがわかる。さらに150年後に記録された歴代志でも「彼らは今日に至って いる」と述べられているがこの記録を最後に10部族は聖書から消えてしま うのである。

*10部族とは?
 アブラハムの子はイサクであり、イサクの子はヤコブ
ヤコブは天使と格闘して「イスラエル」の名を得た
そのヤコブの11人の息子が後のイスラエル民族となった
  長男はルベン、以下シメオン、ユダ、イサカル、ゼブルン、ガド、ナフタリ、アシェル、ベンヤミン、ダン、ヨセフ
ヨセフには2人の息子がいてマナセ、エフライム
この12人の子孫によってイスラエル12部族が構成されていたそのうち北イスラエル王国を 構成したのはルベン族、シメオン族、ゼブルン族、イサカル族、ダン族、ガド族、ナフタリ族、アシェル族、マナセ族、エフライム族である。


神は罪を犯した個々人に対して、その罪を清算させるための摂理をなさる。しかしその人物が蕩減条件を立てる事ができなければ、その清算は子孫に託される事になる。  日本民族の先祖は北イスラエルの民10部族である。10部族が罪を犯した経路は次のようなものである。

@ 神はヤラベアムに「私の定めと戒めを守れ」と勧告するが、ヤラベアムは自己の保身のため(人気を保つため)ペテルとダンの街にバアルの祭壇を築く。 すなわち罪は神が立てた中心から入り、その罪を繁殖した。

A 民衆はヤラベアムにひきずられ、罪をおかした。その罪はバアル崇拝をはじめとする神々の崇拝である。

B 神は預言者を送られ、バアル崇拝を捨てさせようとしたが、民はかえってこれを迫害したのである。


「どのようなものであっても、本来の位置と状態からはなれた立場から原状へと復帰するためには、そこから離れるようになった経路 と反対の経路をたどる事によって蕩減条件を立てなければならないのが原理原則である」(原理 講論P276緒論[1]蕩減復帰、ロマ5/19)
  したがって上記の経路を反対にたどるとすると

@ 神は預言者を送られ、民衆はその言葉を聞きいれる。

A バアル崇拝をはじめとする神々の崇拝をすてる。

B 神が立てた中心(日本では天皇)が悔い改め、その神々を捨てる。


 すなわち日本民族が10部族の罪を蕩減するための条件は、 イ、神々を捨てる ロ、天皇改宗である、と言える。


       
2、偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件

 南北王朝成立当時、北イスラエルの10部族はソロモン王の神殿を崇拝しており、毎年7月15日になると巡礼をしていたが(仮庵の祭 り)これでは王としての自分の立場が危ういと考え、ヤラベアムはペテルとダンの街にバアルの祭壇を築いて毎年8月15日に巡礼する事 を民衆に強制したのである。(レビ23/39〜42、列王記12)
 すなわち自己の保身のために神の御言葉をすて、バアルの祭壇を造り罪を犯したのであった。このため日本民族が神に帰る過程において、 必ず摂理中心者には 保身の性を捨てるための摂理が生じるのである。自己中心的欲望から神を捨てたのであるからこれを蕩減復帰するために は自己の命を捨ててまで御言葉を守るところまでいかなければならない。これを[偶像崇拝の心性を脱ぐための蕩減条件]と言う。
 例として内村鑑三の「不敬事件」(1891)を挙げてみよう。
 1891年、教育勅語が施行されると天皇の御真影に礼拝する事が強制されるようになった。当時第一高等学校の講師をしていた内村鑑 三は天皇を神とするこの偶像崇拝に困却し、簡単に頭をさげただけで降壇した。これが生徒と教師に非難され、各新聞は「キリスト教は国体に相 容れない」と書きたてた。世間は内村を「不敬漢」「国賊」とののしり、内村の家には瓦石が投げ込まれた。さらに内村はインフルエンザに倒れ、 免職され、同じ病に妻を失った。妻を失い、職を失った内村はその後数年間極貧の生活を強いられ死線をさまよった。
もし内村が平穏無事に生きようと思えばキリスト者であることを辞めれば、それができたであろう。しかし内村はかかる試練の苦しみの中でさえ 聖書の神の御言葉を捨てる事がなかったので、後にこの時代における摂理中心者となったのである。それゆえこの蕩減条件は天皇改宗のための霊的 な基台を立てる蕩減条件であるとともに、出発のための摂理であるともいえる。
内村の不敬事件に触発され、各地でキリスト教信徒は天皇への偶像崇拝を拒絶し、それが神道信者に非難されると言う不敬事件が相次いだのである。

日本民族の性質の中に保身の性質が染み付いているのは、「長いものには巻かれろ」「泣く子と地頭には勝てない」などの古いことわざからも知る事が 出来るであろう。平安貴族や明治以来の官僚や政治家達が自己保身に窮する姿が見えるのはこのためである。


     
3、天皇改宗
 日本民族の精神的中心は天皇である。日本国開闢(かいびゃく)以来、天皇は常に民族の魂の中心として位置し続けてきた。幾多の政治体制の変遷の中 でも、天皇家そのものが歴史の渦に巻き込まれ撤廃される事はなかった。あの戦国時代の動乱の中でも天皇制は存続し、あるいは近年の敗戦の 混乱の中でさえ、マッカ−サ−は天皇家そのものを撤廃する事はなかったのである。
日本民族は長い歴史の中で神々を崇拝して来た。すでに第二章において詳しく論じたが、バアル(大国主命)をはじめとする神々を崇拝して、悔い改める 事なく今日まで来たのである。そして天皇は神々を崇拝する神道の宗家として、歴史の中で絶えず民衆を誤誘導して来たのであった。
天皇はヤラベアムの位置にいる。それゆえに神は天皇家を撤廃する事を許されず今日まで存続させられたのである。それは北イスラエル 10部族の罪をその子孫である日本民族が自ら清算する条件を立てなければならないからである。



2、〔日本歴史の反復(スパイラル)性〕
1、歴史は繰り返す
心理学者L・ソンディは、いくつかの家系を調査し、数代前の先祖とまったく同じような運命を辿る子孫がい る事を発見し、それを「先祖無意識」と名づけた。また歴史学者A・トインビーは多様 な文明と国家の興亡史を調べて、歴史が様々に反復している事に気づいて「歴史は繰り返す」と有名な言葉を残した。
ゆえに歴史は様々な次元で繰り返しているのである。日本史もまた世界中心歴史と同様の反復(スパイラル)が見られる。そのパタ−ンは下図の様なものである。


                                              
暗転化点とは?

「暗転化点」とは事態が急速に暗転化していく時点を表している。その後3次に渡って暗転化していく事になる。日本の歴史にはしば しばこのパターンが見られるが、日本仏教史や明治以降のキリスト教プロテスタントの歴史、国家史、などは後半10部族罪障蕩減歴史におい て詳しくのべるので、ここでは例として天主教の歴史過程を解説する事にしよう。



                                             解説しよう。
1549年、鉄砲と共に伝来した天主教は翌年にその公式な路程が始まり、フランシスコ・ザビエルの指導の下、信長による許可もあり 、以後40年間にわたって教勢を拡大した。この時代の信徒数は一時50万人を超えたと言う。しかし秀吉の天下になると、秀吉は 個人的な恨みから1590年「バテレン追放令」を出し、天主教に規制と迫害を加え始め、それは次第に強化していく過程をたどり、さら に家康もこれを踏襲し迫害を加え1612年に「禁教令」を布告し、迫害は拷問を伴う苛烈で陰湿なものへと強化されて行った。この時代 の殉教者の数は約8千人。それからおよそ40年後には完全に封圧されてしまったのである。

 40年、21年、40年が摂理的な意味をもって存在している事が解るであろう。このパタ−ンは後のプロテスタントの歴史にもまっ たく同じパタ−ンが見られ、さらに日蓮宗も同じ歴史を繰り返している。

 なお、天主教が封圧された1650年頃は、民族国家歴史反復においても暗転化点に相当しており、続く天災と社会不安の中、 慶安の変、承応の変、佐倉惣五郎の一揆、明暦の大火などが集中し、天の怒りの凄さましさを象徴している。それから徳川幕藩体制下の日本 には、3次に渡る大きな飢饉が起こり、約210年後の明治維新によって幕府は倒れるのである。

 また日蓮宗不受布施派が天主教の歴史と軌を一にして弾圧、迫害されているのは日蓮宗もまた天の立てた宗教だったからである。この問題は 後半10部族罪障蕩減、日蓮上人中心摂理において詳しく述べる事にしよう。

2、610年の理由
ではなぜ、10部族罪障蕩減摂理歴史は61(610)を基本数としているのであろうか?

 北イスラエル10部族は南北王朝時代の始まりとともに罪をおかした。これは本来神が願われた事ではなく、 神の願いは「・・・わたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い・・・」 (列王記26/37、38)であり、北イスラエルと南ユダは必要な期間を過ぎれば再び一体化するはずであった。(列王記11/39)  しかし北イスラエル10部族はこの勧告を無視し、罪を犯したので、これを悔い改めさせるためにエリアなどの4大預言者をはじめ多く の預言者を遣わし、連れ戻そうとされたのである。しかし彼らは悔い改めることなく滅ぼされたのであった。
 こうして神がモ−セを通して言われた呪いはことごとく彼らに降りかかり、「主は、あなたをあなたの立てた王とともに、あなたも先祖も知ら ない国に行かせられる。あなたはそこで、木や石で造られた神々に仕えるようになる。」(申命記28/36)と述べられた通り、その子孫達は 遠い異国の地である日本にまで来て、木や石を御神体とする神々に仕えたのであった。
 それゆえその子孫である日本民族はイエス降臨にいたる400年、210年、400年の摂理期間をサタンに浸入され奪われてしまっている のである。そのため神は400年、210年を経て、初めて「聖徳太子を中心とする摂理」をなさる事ができたのである。聖徳太子が西暦5 74年に生まれ、西暦610年頃活躍されたのはこのような摂理的理由があったのである。
 しかし、太子を中心とする摂理においては「天皇改宗」の条件を立てる事ができず、再び610年期間を民族的に蕩減復帰されたのち、日 蓮上人を立てられたのである。[太子を中心とした摂理] は643年、太子の子である山背大兄王子(やましろのおおえのおうじ)が自身の命を献身し た事で終わったので、それより610年後の1253年に日蓮は「南無妙法蓮華経」の7字に集約される啓示を受け立教したのであった。
 このようにして、日本史における610年反復歴史が延長を重ねられ形成されてきたのである。

図示しよう。




 細かい説明をしておこう。
 聖徳太子中心摂理においては3代摂理だったので、その終わりが643年になり、それから610年後が日蓮上人の使命期間で あった事はすでに述べた。さらにそれから610年後に坂本龍馬を中心として明治維新がなされたが、龍馬は維新前夜に暗殺されたので その使命は自由民権論者とキリスト教信徒に引き継がれて行く事になった。この時キリスト教が解禁され、公式路程が出発したのが1872年である。


3、同時性の時代に反復する出来事と反復しない出来事
 各時代は前時代に影響を受けているが、まったく同じではない。しかし似たエピソ−ドが生じてくる。
例えば政治史を見れば明治時代の藩閥専制政治時代は政治家の利権汚職が絶えなかったが、これは敗戦後、利権汚職の絶えなかった自民党 1党支配時代へと反復している。藩閥専制政治は1918年原敬内閣による日本で始めての本格的政党政治が始まる事で終わりを告げたが、これは1 993年、細川連立内閣成立による自民党1党支配の終わりへと反復しているのである。
 1918年頃の米騒動時の不況は、1990年代初頭のバブル崩壊の不況に反復しており、原敬内閣、細川内閣はともにそれぞれ不況対策に取り 組み、また共に選挙制度の改革を手がけた。さらに原、細川は共に受洗したキリスト教徒であり、原敬は右翼少年に暗殺されたが(1921年)、細川も 右翼に脅かされたのであった(1994年、5月)。およそ73年前の大日本帝国に起こった出来事が今日に反復している事が解るであろう。
 歴史は様々な次元で繰り返しており、同時性の時代には似たような事件が起こり易くなるが、必ず起こらなければならない訳ではない。ある時代において は意味ある出来事も次の時代においては無意味となり、ただ象徴的にのみ生じる事もあり、まったく起こらない出来事もある。
 例えば大日本帝国の日清戦争や日露戦争は軍部が台頭し、神権天皇制が熱狂的に高まって行く過程の出来事であり、1933年から1945年までの12年間、大 日本帝国はサタンに憑依され、幾多の悪霊が跳梁跋扈していたが、これが天の側に打たれた事により、すでに解決されているので、次の時代である今日では その過程自体が起こらなくなる。また現実的に考えても敗戦後の平和憲法下で戦争は起こらないのである。
 1992年頃から、日本国内には右傾化の流れが生じていたが、これを見てある識者は「これはいつか来た道であり、戦前によく似ている。」と述べていたが、 その理由はすでに述べたように歴史が反復しているからである。しかし今日においては戦前に起こったような右翼革命は起こらないし、ただそれを象徴するよ うな事件が起こったり、人物が出て来たりするにしても、いずれにせよ右翼革命自体は起こり得ないであろう。
 歴史は、歴史学者A・トインビ−が述べた様に「同じところをグルグル回っている」のであるが、同時に最終到達点であるオメガ点に向かって螺旋形を描きな がら進んでいるのである。




3、〔日本歴史の終末論と民族メシア論〕
1、改革と革命の時代
 終末には古いものが終わり、新しいものが始まる。ゆえにそれは改革と革命の時である。日本史を細かく考察すれば、小さな改革や革命的出来事は無数 にあるだろうが、大きな改革・革命の時代は今日まで4回あった。

 第一の改革・革命期は聖徳太子の時代である。太子の生まれる前時代には、国造磐井(くにのみやつこいわい)の反乱(527年)などが起こり、氏神崇拝社会に混乱がう まれ、さらに仏教が伝来し(540年)その受用をめぐって対立と闘争が激化していった。太子はちょうどその渦中に生まれ、仏教を篤く信仰し て「日本仏教の父」となり、その伝道に勤めたばかりではなく、「17条の憲法」や「階位12階」などを制定し、朝廷制度を整え、さらに遣隋使を 派遣して当時の先進国であった中国と国交の道を開いて、先進の制度と文化を取り入れようとされたのであった。後の明治維新期の開国を第二の開国と するならば、この時代の隋との国交は第一の開国と言えるのであり、明治維新後新しい風が吹き始めたように、この時代においても新しい風が吹き始めたのであった。

 第二の改革・革命期は日蓮上人の時代である。日蓮の生まれる前時代には、古い律令制度・貴族社会が崩壊し始め、源平戦乱が起こり、 1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開き封建時代が始まった。宗教界においても腐臭を放つ南都北嶺に代わって、法然、親鸞、道元などが出て、それぞれ新た に諸派を立てるなど宗教と政治の内外両面に渡る改革・革命期であった。

 第三の改革・革命期は坂本龍馬の時代、すなはち明治維新期である。龍馬の生まれる前時代には、徳川幕藩体制を揺るがす天保の飢饉、大塩平八郎の乱 などが起こり、やがて明治維新が起こり、新たな近代的日本国家が生まれた。宗教界でも教派神道各派において霊的啓示活動が活発となり、また開国に よって新しい風が吹き始め、1872年最初のプロテスタント受洗者120名が洗礼を受け、翌年『切支丹邪宗門禁制高札』(きりしたんじゃしゅうもん きんせいこうさつ)が撤去された事により中心宗教である日本キリスト教の公式路程が始まった。

 第四の改革・革命期は賀川豊彦の時代、すなはち敗戦期である。敗戦によって神権天皇制の方向に進んだ大日本帝国は解体され、新た に民主主義を標榜する日本国としてとして生まれ代わったのである。

 これらの改革・革命期はみな暗転化点以降3次に渡って、異常気象や天災、戦乱、戦争、不況などが起こり、国家と民衆が混乱し疲弊した 後訪れるのである。そして各時代において聖徳太子、日蓮上人、坂本龍馬、賀川豊彦はそれぞれ民族メシア型使命者であった。


2、民族メシア類型論

 すでに論じた事だが、日本史における神の摂理の中心目的は、天皇が自ら悔い改め、改宗する事により、北イスラエル10部族が犯した罪を清 算する条件を立てる事にあった。
              ではなぜこのような条件が立てられなければならないのであろうか?
 それは言うまでもなく、10部族の罪を清算しなければ、その血統的条件により、絶えずサタンに浸入され、地上に地獄が顕現するからである。 神は地獄を完全に撤廃せんとされる。それゆえに10部族の子孫である日本民族に10部族の罪を清算させるための摂理をなされたのである。ところで 罪の清算のための蕩減条件を立てるには、「条件物」「数理的な蕩減期間」と共に「中心人物」がいなければならない。(原理講論p278~p280) このような中心人物として選ばれたのが聖徳太子であった。
 ゆえに太子はアブラハムが偶像商テラの息子であったように、神々を崇拝する宗家である天皇家から復帰された人物として現われ、馬小屋出生、 12歳の逸話、ソロモンのような知恵、奇跡譚などメシア的逸話で知られるようになったのである。
 その使命継承者であった日蓮上人もまた12歳の時の逸話があり、21才から32才までの12年間、真理を求めて過ごし 、その後21年間預言者的活動をしたのであった。
 さらに坂本龍馬は3年半に渡る天命活動期間と33才の自己犠牲的死によって知られている。
 龍馬の使命を継承したクリスチャン賀川豊彦は12年間の貧民窟での奉仕の生活によって世界的に聖人として知られるようになった。
 このようにイエスキリストを想起させるような逸話が彼らにあるのは彼らが民族メシア使命者であった事を暗示しているのである。

     馬小屋出生、12才の逸話、ソロモンのような知恵、奇跡譚――これはイエス・キリストの逸話と重なる

     12才の逸話、21才からの12年間、21年間預言者的活動――12,21の原理数が意味を持っている
                     内村鑑三は日蓮を「預言者型」と述べている

     3年半に渡る天命活動期間、33才の死――これもイエス・キリストの逸話と重なる

     12年の奉仕、世界的聖人――2 0世紀中頃、賀川豊彦の名前は世界にキリスト教の聖人として知られていたのであった。し かし今日賀川の名を知る人は少ない。それは賀川と日本キリスト教に使命失敗があったからである。


先見の明
 ユダヤ教の聖典である旧約聖書は同時にイスラム教、キリスト教においても聖典である。その旧約聖書には預言者が「先見者」と呼 ばれていた時代があった事を告げている。先見者とは言うまでもなく、先見の明をもって時代を導いていく人物の事である。
 すでに述べた聖徳太子、日蓮上人、坂本龍馬、香川豊彦はみなこのような先見の明をもって動乱と混迷を深める各民族的終末時代を導いたのであった。



                       
3、民族メシア使命者の天皇改宗摂理
 この問題については後半・10部族罪障蕩減摂理歴史において彼らの事跡を辿りながら詳しく述べる事になるが今簡単に見ておこう。
 〔聖徳太子を中心とする摂理〕において、太子は仏教信仰を確立し伝道に努めた後、自ら天皇位につくのが最も近道であった。太子は用命 天皇の息子であり、英明な太子を推す声も多くあったにも関わらず、太子は天皇位につけなかった。
 そこでやむなく第二次路程として、推古天皇を改宗する道を歩まれ『勝蔓経』(598)『法華経』(607)などを講義されたのだが、 推古天皇は改宗せず、逆に 「神祇崇拝詔」(607)を出して神の摂理に逆行したのであった。
 さらに次代において天皇位につくべき太子の子、山背大兄王子を蘇我氏が殺害したためこの時代における天皇改宗摂理は達成されなかったのである。

〔日蓮上人を中心とする摂理〕において、日蓮は「南無妙法蓮華経」の7字に象徴される啓示を受けた後伝道に努め、太子の時代の失敗を蕩減復帰す るため、この時代においては蘇我氏と同様の立場にいた北条氏を改宗し、「実体基台」を造成し「天皇改宗のための基台」を立てた後、天皇改宗するよ うになっていたのだが、北条氏が不信したため天皇改宗する事ができなかったのである。しかし日蓮の死後、日蓮の教説を受け継いだ日蓮信徒達は伝道 に励み、日蓮より直接に京都開教を命じられた日像門下は「天文法華の乱」(1536年)によって京を追い出される直前には、天皇改宗に近づいていたのであった。
 また日蓮は自身の非妥協の性質を最も受け継いだ日興門流・日蓮正宗総本山大石 寺に不開門(あかずのもん)を啓示して、天皇改宗に向かわせようと したので、後の正宗信徒にとって、この 「不開門」を開ける事が悲願となったのであった。

 〔坂本龍馬を中心とする摂理〕において、龍馬は米国型民主主義理想を掲げ、天命のまま 「大政奉還」の無血革命によって造られるはずだった新政府 の基台の上に立ちうれば、これが「天皇改宗の基台」となり、維新直後の天皇改宗チャンスに森有礼や中村正直らと共に改宗するはずであった。しかし維新 の直前、龍馬は暗殺されたので、この歩みは自由民権論者と解禁されたキリスト教徒の使命となり、内村鑑三の時代には内村の祈りの下カソリックが皇室に 入りかけるが明治天皇は改宗する事なく、没したのであった(1912年)。

 〔賀川豊彦を中心とするとする摂理〕において、賀川は12年間の貧民窟での献身的信仰生活によって世界的に聖人として知られるようになり、1929年 より神の国運動を始める事により、キリスト教会の団結を促し、その基台の上に立ちうれば、それが「天皇改宗の基台」となり、敗戦後のチャンス に改宗する事ができたはずであった。しかしキリスト教会は団結する事ができず、軍部の圧力に負け、サタン勢力の発揚にズルズルと巻き込まれて行った がために「天皇改宗のための霊的な蕩減条件」を立てる事ができず、敗戦後に天皇改宗する事ができなかったのである。
敗戦後、マッカーサーは日本をキリスト教化する気でいたし、昭和天皇自身もそれを望んでいたがため、篤実なクエーカー教信徒であるエリザベス・ G・バイニング婦人を皇太子の教育係に招聘したりしたが、日本キリスト教に[改宗のための霊的基台]が立てられていなかったがために、1948年まで の改宗期に改宗する事ができなかったのであった。その後ミッション系女学院出身の美智子后が皇室に入ったが、昭和天皇は自身の意見を言わず、改宗 を求めるクリスチャンの声に「国民の半数以上がそれを望むなら、そうしよう」と述べたにとどまったのであった。

5、民族の中心
 民族メシアは神が立てられる民族の救いの一点である。ゆえに彼の志に共鳴し、彼と一体化する事によって始めて[北イスラエル10部族の罪]を清 算して、立正安国する事ができるのである。
 龍馬の時、もし薩長の指導者達が龍馬の無血革命の志に共鳴し、賛同するならば龍馬は死なず明治を迎え、その使命を果たしえたであろう。
 聖徳太子の時、もし蘇我氏が太子の仏教国家建設の志に共鳴し賛同していたなら、太子はすぐにでも天皇位に就くことができたであろう。
 
 しかし今日までのいずれの時代においても、民族メシアの進む方向に共鳴する事は困難であった。今日、再び改革と革命の時代を迎えている。 しかし誰が時代の中心を悟るであろうか?

4、日本歴史の時代区分
  イエス・キリストが来臨され、新しい恵沢の時代が来たのであった。そして、木や石を神々として仕えていたサタン側の世界である日本においても、 神の摂理に対応する人間本心の作用により、より善なる人々とより悪なる人々が互いに戦いながら分立をなして来たのであった。

@ イエス・キリストの来臨期から、聖徳太子の時代までのおよそ610年間を[10部族罪障蕩減基台摂理期間]と言う。この時代の日本 人はみな神々を崇拝して地獄に堕ちたので[10部族罪障暗黒時代]とも言うのである。

A 聖徳太子の時代から、日蓮上人の時代に至るまでのおよそ610年間を[10部族罪障蕩減蘇生摂理期間]と言う。また、この時代は太子 が霊的に仏教徒を導いた期間であるがゆえに[太子仏教実体展開期]とも言う。この時代の人々は太子仏教の実践により、蘇生期蘇生級まで霊人体 を復活することができたのである。

B 日蓮上人の時代から坂本龍馬の時代に至るまでのおよそ610年間を[10部族罪障蕩減長成摂理期間]と言う。またこの時代は日蓮が霊的に日蓮 宗徒を導いた期間であるがゆえに[日蓮宗実体展開期]とも言う。この時代の人々は日蓮宗の実践によって、蘇生期長成まで霊人体を復活する事ができたので ある。

C 坂本龍馬の時代以降を[10部族罪障蕩減完成摂理期間]と言う。また、この時代は龍馬が霊的に自由民権論者を導いた時代である とともに天の側が立てたキリスト教が解禁された時代なので、キリスト教を信仰し実践する事によって蘇生期完成級まで霊人体を復活す る事ができるようになったのである。

完成摂理期間は次の3段階の期間に分けられる。
@  龍馬から賀川豊彦までのおよそ61年間を[第一次10部族罪障蕩減完成摂理期間]と言う。

R: 1933年右翼革命が起こり、サタンに主権を完全に握られ、1945年の敗戦に至るまでの12年間を[10部族罪障発揚期]と言う。

A 賀川から最終的に天皇を改宗する民族メシア使命者までのおよそ61年間を[第二次10部族罪障蕩減完成摂理期間]と言う。

B 最終的に民族メシア使命者は天皇を実体的に改宗しなければならないのだが、その期間は2046年までである。ゆえにこの期間を 「第三次10部族罪障蕩減完成摂理期間」と言い、また[天皇改宗期]と言う。

C 天皇が改宗した後を「民族霊界解放期」と呼ぶのである。
天皇の改宗によって北イスラエルの罪は完全に清算されるので、以降の歴史において民族的問題は終わりを告げ、良心的に生 きた人々は再臨主の恵沢によって天国人となるであろう。


以降の歴史について、もし天皇が改宗するなら歴史は続くであろう。しかし改宗しないなら日本民族の歴史はそこで終わる。この民族は今滅びの際に立っている。



 
6、日本統一教会信徒の路程の意味
 今日まで多くの人々が統一教会に伝道され、あるいは原理を聞き、あるいは一時信徒となった後に教会を離れたのであった。そして「献金 を返せ」また「青春を返せ」などの訴訟を起こしたのは、よく知られる話である。飯干景子や山崎浩子の脱会のさい、その説得に当たったのは数名の元信者であった。 彼らは寝食もこと欠きながら一日中、万物復帰のために苦労した恨みを切実に述べたと言う。
ではなぜ彼らは、そのように苦しみ、脱会したのであろ うか?
その遠因を考えてみよう。

 【遠因】
 北イスラエル10部族の古い罪は、今日完全清算期に入っている。したがって日本民族の中から復帰の道を歩く人々は、10部族とよく似た試練を受け、きわめ て困難な状況に陥るのである。
 すでに述べたように、裕福な10部族はソロモン王の神殿建設の際、重税強制労働を課せられ苦しんだ。(列王上12/1〜15)そのためユダの血統を憎んだの だが、その子孫である日本民族から選ばれて蕩減復帰路程を歩く人々も、同様に重税と強制労働を課せられ苦しむ過程を経なければならないのである。
『原理講論』P229〜230に啓示されている 悪霊人の復活法 がそのまま適用されるのである。
 したがって、このような元信徒は、10部族が神殿建設の苦しんだように、万物復帰の過程で苦しみ、ついに信仰を放棄せざるを得なくなったが、その後 10部族の歴史的心情をたどりながら帰ってくる事で古い霊界の罪の清算に寄与するのである。
  
  * 言うまでもない事だが、ソロモン王の[神殿建設]はその時代においては神の摂理であった。
          
 《参考》
統一教会ホーム・ページ「原理講論」の紹介
賀川豊彦・神の国運動
不開門(あかずのもん)
「天文法華の乱」(1536年)
アーノルド・トインビー
東京ソンディ研究会
ウィキペディア平民宰相原敬


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