第一章 民族のルーツをさがす旅

1−歴史教科書には載っていない探求の歴史−
 日本における先祖研究の最初の著作は、聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記及国記臣連伴・・・本記』である。 これが『国造本記』の底本であった。8世紀になると日本民族の代表的系譜書である『古事記』『日本書紀』が 作成され、『新選姓氏録』『尊卑分脈』なども編まれている。
しかしさらなる源流を求める旅は続く。

コロボックル・アイヌ論争
 明治10年、英人Eモ−スが大森貝塚を発見し、『日本における古代人種の 痕跡 こんせき でプレアイヌ人論を唱えた。こ れに対してHVシ−ボルトやJミルンが反論し、いわゆる「コロボックル・アイヌ論争」に火がついた。 以後1880年代の渡瀬庄 三郎や坪井正五郎のコロボックル論に対する白井光太郎、小金井良精、浜田耕作、佐藤伝蔵、鳥居龍蔵ら を巻き込んでの大論争に発展した。 しかしこの論争の焦点は、日本民族の先住民は誰か? と言うもので、いずれにせよこの先住民である縄文人を後からきた弥生人の手で 駆逐 くちく したという大筋では一致していた。
では、その後から入って来た民族はどこから来たのか?
−学会諸説−
  前DNA研究時代である1926年に清野謙次らは小金井良精のアイヌ説を退け人骨の研究から旧石器人がその まま日本民族の先祖だと言う『日本原人論』を唱えた。人類学者・鳥居竜蔵は、「日鮮同祖論」を唱えたがこれは 日本の植民地政策を後押しした。その後民俗学者柳田国男と折口信夫は、神話、伝説、民話、儀礼などの比較研究によって民族の原郷を探す方法を採用し、シンポジ ウム「海上の道」(昭和36年)では日本文化の原郷を南方であるとしてい る。海外との交流がすすむにつれ、語彙(ごい)や文法の研究により、言語学的アプロ−チが進展し、W・アストンやb・チエン バレン、などの研究の後、金沢床三朗の『日韓両国語同系論』(明治42)などが出され、さらにアリアン語やインド・ヨ−ロ ッパ語との比較研究もなされた。その後もさまざまな説が出たが、北方説や南方説に対して昭和初期、亀井 貫一郎が「日本民族の先祖はツング−ス系モンゴロイドだ」という「騎馬民族説」を打ち出した。 その説をさらに発展させた江上波夫は1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポ ジウムで 「騎馬民族征服王朝説 きばみんぞくせいふくおうちょうせつ を提唱し、昭和42年のシンポジウムでは、南朝鮮から北九州への騎馬民族の侵入が4C前半になされたとしている。し かしむろんのこと江上説への反論も多く、激しい論争が繰り広げられており、以後これらの論争の決着は 今日でもついていないのである。
日本民族の祖先はどこからきたか?北からか、南からか、西からか、東からか?民族のル−ツは依然として謎に包まれている・・・・。
 
2、日ユ同祖論の流れ

ケンペル
元禄時代オランダの医師として来日したドイツの博物学者ケンペル(1651―1716)は、その著『日本誌』のなかで、言語の 類似にもとづき「この民族は疑いもなく、直接にバビロン諸島人の一部が流れて来て、この島に辿り着いたに違いない」と述べている。

シ−ボルト
1823年に来日し5年間滞在したドイツの医師、博物学者シ−ボルトも「日本民族はオリエントにそのル−ツがあるかも知れぬ」と控えめに述べていた。

ベッテンハイム
1846年、家族と共に琉球王国(沖縄)に上陸し、開拓伝道に生きたB・ベッテンハイム(1811〜70、英国教会)は「はるか昔に東洋に消えたとされ るイスラエル10部族の足跡をたどる」ために来日し、琉球で暮らしながら「日本人は消えた10部族である」と確信するようになったと言う。 (『英宣教医ベッテンハイム――琉球伝道9年間』より)

先見者ノーマン・マックレオド  日ユ同祖 論の教祖的存在
 明治初期に来日した英人N・マックレオドは、1875年(明治8年)に出版した『日本古代史の縮図』の中で 「天皇家は、古代イスラエルの王家の子孫である」などと唱えた。これが日ユ同祖論の原典であり、1901年度版の『ユダヤ大百科事 典』に取り上げられ、多くのユダヤ人に感銘を与えその後の『ユニバ−サル・ユダヤ百科事典』に今日でもその引用文が掲載さ れ続けている。

木村鷹太郎の妄想  かなり嘘つき
 明治・大正・昭和初期時代は根拠に乏しい空想的日ユ同祖論が入り乱れた時代でもあった。偽史家として知られる木村鷹太郎(1870〜1931)は「かつて日本 民族が世界を支配していた」とする「新史学」を熱烈に唱え『日本古代史』をあらわし、これは大本教の出口王仁三郎(1871〜1 948)や酒井勝軍(かちいさ)(1873〜1940)に影響を与えた。キリスト教の牧師であると同時に軍関係者でもあった酒井はパレスチナに滞在した後、月 刊誌『神秘の日本』を刊行して全国で演説した。酒井の説は「日本の天皇こそダビデ王の正当な子孫であり、来るべきキリストである。 ゆえに皇軍はパレスチナに進軍すべし」という軍国主義色に彩られたものであり軍事膨張主義を後押しした。

バビロニア学会の原田と三島
 一方ケンペルの説を受けて大正年間に組織された「スメル学会」や「バビロニア学会」において原田敬語が『日本人シ ュメ−ル起源説』(大正7年)を発表した。原田はバビロニア語を学び日本の古代語と比較したほか「創世神話であるイシュタル女神の冥界下りの神話が日 本創世神話のイザナミの冥界下りによく似ている」など神話を比較している。この原田説を継承した三島敦雄は1927年に大著『天孫人種六千 年史の研究』を著した。この本は当時100万部に近いベストセラ−となったと言う。

アナ−キスト石川三四郎のヒッタイト説   なぜヒッタイト?
 しかし、メソポタミアに生まれた文明はその周辺に広範囲に伝播しており、その後のバビロニアやアッシリア、ペルシアなどの大帝国の神話や言語においても影響 を与えている。従ってこの周辺ならどこでも候補になり得るはずである。モロッコでメソポタミア神話に触れたアナ−キスト・石川三四郎(1876〜1956)は、 原田より3年後に『古事記神話の新研究』をあらわし、日本民族の先祖はヒッタイト人であるとしている。

ホ−リネス初代監督・中田重治の努力
 ところで、ユダヤ教信仰の祖であるアブラハムは紀元前2000年頃の人であり、メソポタミアの街ウルの出身であった。ゆえに彼の使って いた言語はシュメ−ル語に影響を受けた言語だったに違いない。その子孫達はエジプトで450年足らず生活し、その後カナンに移り住んだ。だから彼らの言葉は、 エジプト語やカナン地方の方言にいくらか影響を受けていたであろうが、ベースにはシュメ−ル語があったであろうし、その後メソポタミア全体に広まったアッカド 語にも影響を受けているものと思われるのである。したがって日本語の中にシュメ−ル語やアッカド語の影響が見られたとしたら、それは日ユ同祖論にとって有力な 証拠の一つとなりうるのである。ゆえに原田説や三島説、石川説を利用していけばよかったのだが、日本ホ−リネス教会初代監督中田重治(1870〜1939)は そうは思わなかったらしい。彼は、熱心な日ユ同祖論者であったが、上記のような論説を無視できなかったため1932年に著した『聖書より 見たる日本』の中で、ヒッタイトやシュメ−ルに関して様々に苦しい論理を述べている。

小谷部全一郎説
それより少し早く1929年小谷部全一郎(1868〜1941)は『日本及日本民族の起源』をあらわし、ヘブライ民族と日本民族の宗 教的共通点をあげている。 みそぎ の一致、神社の鳥居 (とりい)とユダヤ 神殿の2本の柱、しめ縄、塩をまく事・・・などである。小谷部も牧師になった事 があり、この時代の熱心な日ユ同祖論者にはキリスト教徒が多くいた。不敬事件で有名な内村鑑三も同祖論を認めており、その無教会の系譜を引く手島郁郎も熱心な 信奉者であった。手島は戦後新興キリスト教系団体「キリストの幕屋」を主宰したが、手島が度々日ユ同祖論について述べたため、同教団には同祖論者が多く、また手島 の子息は同祖論を研究するためにイスラエルに留学したという。
 日ユ同祖論者がキリスト教徒に多かったのは、『旧約聖書』のユダヤ人の歴史を知る者がキリスト教徒しかいなかったからである。布教のためだったと言う論者もい るが、日ユ同祖論がどの程度布教の役に立ったのかは疑問である。それよりある種の霊感を感じたのではないかと思われる。戦後の同祖論の流れを見る前に聖書の物語 を少し覗いてみよう。
 
3、アブラハムの子孫
ユダヤ教信仰の祖、といわれるアブラハムには12人のひ孫がいた。この12人が後のイスラエル12部族の先祖である。エジプト奴隷(ど れい)時代、モ−ゼによる出エジプト、サムソンなどの士師が活躍した時代をへて、人数が増え、始祖アブラハムから約1000年後の紀元前1000年にはサウル を王とする王国を形成した。有名なダビデ王、ソロモン王を経て次のレハブアムが即位した時反乱が起こり、南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂してしまった。




この内北イスラエル王国を構成したのは
ルベンシメオンイッサカルゼブルン - 父はヤコブ、母はラバンの娘レア
ダンナフタリ - 父はヤコブ、母はラバンの娘でレアの妹ラケルの下女ビルハ
ガドアシェル - 父はヤコブ、母はラバンの娘レアの下女ジルパ
エフライムマナセ - 父はヤコブとラバンの娘ラケルの子ヨセフ、母はエジプトの祭司ポティ・フェラ の娘アセテナ
一方、南王国ユダの2部族とは、
レビユダ - 父はヤコブ、母はラバンの娘レア
ベニヤミン - 父はヤコブ、母はラバンの娘ラケル
(彼らがユダヤ2部族の祖とされるが、実際には3部族となっている。これは、レビ族が祭司の家系で あって継承する土地を持たないためである。)






北王朝の成立過程
 ソロモン王の神殿建立のさい、重税と強制労働に悩まされた10部族は、次のレハブアム王の時反乱を起こし、パレスチナの肥沃(ひよく)な北の 区域を支配し、ヤラベアム(エフライム族)を王とする北イスラエル王国を建設し た。(列王記(れつおうき)上12、歴代誌(れきだいし)下10)
ヤラベアムの罪
 神は北イスラエル王ヤラベアムに「私の定めと戒めを守れ」と命ずるがヤラベアムは、その命令を守らないで、ベテルとダンの街にバアルの祭壇を築い て、民衆を罪へといざなった。この「ヤラベアムの罪」以来、北イスラエルの19人の王達は皆ヤラベアムに習い、バアルを始めとする邪神を崇拝して悔 い改める事がなかった。
 神は多くの預言者を遣わし、邪道に堕ちた北イスラエル王国を連れ戻そうとされたが、王も民衆も悔い改める事なく、紀元前722年、アッシリア帝国 に侵略侵入され滅び去るのである。この時一部は南ユダに合流し、一部はサマリアに残ったが、大多数はアッシリアに連行され、捕囚として生活したのであった。 (列王下17/6〜8、歴代下30)

消えた10部族
 それから150年のちに編纂された「列王記」に「彼らはまだそこにいる」と記録されている。またさらに150年のちに記録された「歴代志」にも「彼らは 今日にいたっている」(5/26)と書かれているが、この記録を最後に北イスラエル10部族の行方は分らなくなったのである。ゆえにこれを「消えた10部族」 と称し、世界史上の謎とされているのである。
10部族の行方を示す『聖書』の預言
 消えた10部族はその後どうなったのか?記録は何もないが、「申命記28/36」にはその行く末をこのように預言されている。

「主は、あなたをあなたの立てた王とともに、あなたも先祖も知らない国に行かせられる。あなたはそこで、木や石で 造られた神々に仕えるようになる。」

と述べられた通り、その子孫達は遠い異国の地である日本にまで来て、木や石を御神体とする神々に仕えたのであった。
全国50万社の神社は「木や石」を「 御神体 ごしんたい 」として まつ っている。我々の先祖はその「木や石」を「神々」として仕え、これに礼 拝し、祭りを執り行なって来たのであった。21世紀今日においても、「木や石の御神体」に年始には「 初詣 はつもうで 」と称して、たくさんの人々が 礼拝している。
 まさに聖書の預言の通りである。
 このような国は日本をおいて他にはない。
 
4、戦後の日ユ同祖論
 戦後の日ユ同祖論はユダヤと日本の2つの方向から展開した。1つはユダヤ人による探求であり、ユダヤ教のラビであるM・トケイヤ−は1975年『ユダヤと日本 謎の古代史』を出版した。
74年に来日したヨセフ・アイデルバ−グ(1918〜85)は京の護王神社の臨時神官となり、日本の風習と言語を研究し、1984年『大和民族はユダヤ人だった』を出版した。アイデルバ−グはヘブル語やアラビア語、フランス語など7ヶ国語を自在に操る語学の天才があり、来日する準備期間に日本語を学びながら、すでに日本語とヘブライ語の共通点に気がついたと言う。そして「私は14年の歳月をかけて世界各地の言語を調べあげた。世界には中南米のマヤ人をはじめ、いくつも“失われたイスラエル10支族”の候補となる民族がいるのだが、日本語のようにヘブライ語起源の言葉を多数持つところはなかった。一般に日本語はどの言語にも関連がないため、孤立した言語とされているが、ヘブライ語と類似した単語がゆうに3000語を超えて存在している。」と述べている。
アイデルバ−グが述べる大和言葉とへブライ語の共通点は次のようなものである。

カムヤマトイワレビコスメラミコトのヘブライ語的意味とは?

天皇の公式名である「スメラ・ミコト」は古代ヘブライ語アラム方言で「サマリアの大王」を意味し、初代神武天皇の 和風諡号(しごう)である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になって いるという(「サマリア」とは古代の北イスラエル王国の首都)。
カムヤマトイワレビコスメラミコト(初代神武天皇の和風諡号)
 QMW・YMthW・a'VRY・VKWR・shWMRWN・MLKWthW =創設者・ヤハウェの民・ヘブル人・高尚な・サマリアの・王
(ヘブル文字――ここでは一般的な書き換え法に従い、ヨッド=Y、アイン=a' とした)

あがたぬし(県主)
日本の古語 「あがたぬし」は神武天皇が首長に与えた称号だが、古代ヘブライ語で「アグダ・ナシ(AGUDA−NASI)は「集団の長」を意味する。

あなにやし
 日本神話の中でイザナギとイザナミが結婚する時「あなにやし」と叫んだと言う。古代ヘブライ語で「ANA NISA」は「結婚する」の意味だという。

ハズカシメと似ている
日本語の「ハズカシメ」は侮辱を意味するが、ヘブライ語で侮辱は「ハゼカーシェム」と言う。
 その他、アイデルバ―グの『大和民族はユダヤ人だった』には多くの例があげられている。箇条書きにしておこう。


 
5、戦後日本人の「日ユ同祖論」
川守田英二博士の論説
 ここで川守田英二による日本語とヘブライ語の比較研究をあげておこう。川守田は酒井勝軍の影響を受け、さらに酒井達に影響を与えた復古 神道の平田篤胤に聖書解釈の影響を受けているので、アダムとエバをイザナミ・イザナギと同一視してしまっている。しかしイザナミ・イザナギの神話は最初から『聖書』 のアダム・エバとは無関係であり、むしろメソポタミア神話の天空神アヌとアントゥヌやギリシャ神話のオルペウスとエウリュディケの話に良く似ているのである。
 また「日本の天皇家は正統ユダヤ王家である」と言う酒井勝軍の説をそのまま踏襲しているので、ヘブライ語の解釈にかなり無理があるものもある。

・・・・はっきり言えばコジツケが多い
 そうした欠点が川守田にはあるが、彼の宗教信念と宗教解説はともかくとして、いくつかのヘブライ語と日本語の研究には正しいと思えるものもあるの で挙げておこう。とりわけ現代では意味が分からなくなってしまった古代大和言葉やハヤシ言葉の研究は一部、白眉である。
川守田博士の解釈
川守田英二は『日本言語考古学』『日本ヘブル詩歌の研究』で以下のような例を提示した(川守田は、ヨッド=I、アイン=Y、シン(sh)。=S という置き換え法を採っており、以下はこれによる。)




 すでに日本人には意味が分からなくなってしまったハヤシ言葉や祭りの時の掛け声がヘブライ語によって意味が分かるとすれば、それは何を意味しているのであろうか?




小石豊牧師の情熱
日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の小石豊牧師は1982年の『失われた10部族の回復』を皮 きりに『日本人とユダヤ人の連合を世界がおそれる理由』『古代ユダヤの大予言』など日ユ同祖論の 著作が多数あり、主体的情熱を持っている。おそらく伝道努力しながら、なかなか実らない日本人に疑問を持たれたのだろう。 現在「聖書と日本フォーラム」などで 講演している。しかしこのフォーラムの人達はいくつかの勘違いされているようだ。
 第一に 神道は無偶像ではない。神道こそ偶像崇拝と言うものである。
 第二に 日本神話の神々は聖書の登場人物と一切関係ない。日本神話の八百万の神々はバアルを始めとするメソポタミアの八百万の神々と深い 関係にあるのである。
 この問題は次章『バアル崇拝と日本神道』において詳しく論じよう。
6、アミシャーブの探求と日本からの探求の接点
2006年12月、「みのもんたの日本ミステリー」(テレビ東京系)で日ユ同祖論が取り上げられ、元駐日イスラエル大使のエリ・コーヘンやアミシ ャーブの代表ラビ・アビハイルへのインタビュウがなされていた。
エリ・コーヘンは著作『大使が書いた日本人とユダヤ人』で知られ、番組内でも「日本には古代イスラエルとのつながりを思わ せるものが多くある」と語り、ラビ・アビハイルも「来年日本を調査する」と述べていた。
アミシャーブとは「失われたイスラエル10部族の子孫」を探すために造られたイスラエルの民間組織である。1975年に設立され、すでにシルクロード沿い の各地で10部族の子孫を見つけているという。例えばアフガニスタン、パキスタンのパシュトゥン人、ミャンマーとタイに住むカレン 人、インドとミャンマーの国境付近に住むメナシュ族・・・などである。
この内カレン人は日本民族の源郷を探す研究者には、それなりによく知られている。
日本の先祖研究者によって知られる カ レン人と日本人の密な関係

カレン人は日本人とよく似たわらじや下駄で知られており、さらに『倭人伝』に記録されている貫頭衣を現代まで着ている事でも知られている。 『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は3世紀当時の日本人のスタイルについて詳しく記録しており、「婦人は中国の単被のようで中央に穴を開けたものを、 頭を貫いて衣(き)ている」と述べている。カレン人は今でもそのままの服装である。その他、竹と板とを組み合わせた簡単な機織、楔(くさび)で張った太鼓、 小魚を掬(すく)う三角竹網(さんかくたけあみ)、装身具などにもカレン人には古代の日本と似た文化が多いのである。

歌と踊りの風習
さらに日本の三味線(しゃみせん)はタイのものと似ており、アカ族には「カゴメカゴメ」の古謡(こよう)そっくりな唄が あり、リス族には安来節(やすきぶし)そっくり なものや、沖縄の“赤馬踊り”と同じ歌や伴奏の“マググヮー”と言う踊りがある。
また東南アジアの山地民族には、夜がかり火の回りで男女が2組に分かれて歌と踊りのかけ合い合戦をやる風習があるが、これは『風土記』 や『万葉集』に記録されている古代日本の歌垣の風習とよく似ている。
タイに見る鳥居(とりい)の原型
タイには日本の鳥居の原型と思われるものが存在している。鳥居はその形式に多少の違いはあるが、北の満州族から西はプータン、インドまで広く分布している。 タイのアカ族のものは、素朴な形式の上に木製の鳥の像が乗せられている。同じ木の鳥は大阪の池上遺跡からも出ている。日本の鳥居やインド、サーンチーの三段鳥 居の源流ではないかと思われている。
丸々とした米
弥生文化は水稲と共にやって来たが、その日本米(ジャポニカ種)の故郷と目されているのがタイからミャンマーにかけての山地である。そこでは細長いタイ 米(インディカ種)ではなく丸々としたジャポニカが作られている。
マレー語で水田を「サワ」と言うが、日本でも水田に適する湿地帯をサワと呼ぶのは語源が同じなのではないか。
参考文献『日本人のル−ツ』加治木義博著)
このように多様な面でカレン人は日本人によく似ており、この地こそ日本民族の源郷ではないか、と言う説をのべる人もいるのである。そしてそのカレン人に は一つの言い伝えがある。


カレン人の言い伝え

カレンの歴史を伝える語り部である酋長は、「その祖先はバビロン人でその滅亡と共に大移動を続け、 朝鮮、日本にまで移住した」と言う記録を持っている。(『日本人のル−ツ』加治木義博著より)
もし日本民族とカレン人が同じ源流にあるのだとすれば、日本民族の先祖もまたバビロン人であると言えるであろう。



 カレンの楯琴
カレン人は彼らの言い伝わる歴史によると、バビロンから移動し朝鮮 半島に入った後、中国の江南に行ったが、ここで圧迫されたのでビルマ、タイに逃げたと言う。
これは中国の正史にもちゃんと記録されている。正史によると、前漢を乗っ取った王奔(おうもう)は、高句麗を討ってその農民を江南に強制移住させている。 農民は当然種子や技術も持っていく。これがカレン人である。日本の米や文化に近いものが江南にあるのも当然である。

同じ米や技術があるから「日本民族の源郷は中国江南地方ではないか」という説もあるのだが、すでに見て来たカレン人の足跡からこれは説明できる。


 
7、今日の日ユ同祖論の問題点
 日ユ同祖論は学説ではなく、一般的にはうさんくさいトンデモ論の一つとして数えられる事が多い。「剣山にソロモンの秘法が隠されている」とか「東北にキ リストの墓がある」とか「秦氏は景教徒であり、八幡神(やわたかみ)はユダヤ・キリスト教の神ヤ−ウェである」などの根拠に乏しく、面白半分に『月刊ム−』誌をに ぎわす諸説が「日ユ同祖論者」の著作に載っている事も多く、その信憑性(しんぴょうせい)を傷つけている。

秦氏=景教徒説は謬説(びゅうせつ)である
「秦氏は景教徒である」は佐伯好郎(1871〜1965)が唱えたが、すでに学会において、その時代考証の不適切さが指摘されている。景教は431年 エフェソス公会議で「異端」とされ、東方に追いやられ、635年唐に入った。しかし秦氏は4〜5世紀には日本に入っていた事が分かっており、時代が合わない。
さらに秦氏が全国にヤーウェの神殿(八幡社)を造るほど熱心な景教の信奉者であるなら、周りの人々に伝道したはずだし、一族1万人以上いた秦氏は少なくとも 1000冊くらいの聖書を持っていたはずである。もし聖書写本が数冊しかなくとも、ヤ−ウェの神殿を全国に造るほどの信心なら、子弟にその神について教えたであ ろうし、それが文書化しているはずである。さらに全国の八幡神社に、その神の由来を示す碑文を立てたであろう。しかし今日まで古代日本に聖書があった証拠は ないし、碑文も無いし、後世の秦氏の子孫に聖書やその信仰が伝わった様子もないのである。
つまり、最初から謬説であって信用できる説では無いのである。

マックレオ説を鵜呑(うの)みにするなかれ
日本の日ユ同祖論の大きな問題の一つは開祖マックレオが唱えたからと言って、その説を無批判に鵜呑みにしている事である。私も同祖論を支持するが、マックレ オの唱えた内容の内、半分も信用してはいない。マックレオは100年以上も前の人であり、知識の点ではその時代の限られた知識しかなかった人なのだから、 それを鵜呑みにしてただ繰り返すだけの日ユ同祖論は当のマックレオ自身が望んではいないであろう。ゆえに21世紀の今日的日ユ同祖論はマックレオを踏み台 に大きく改良しなければならない。

トケイヤーも鵜呑(うの)みにするべからず
M・トケイヤ−は「日本のお神輿」と「イスラエルの契約の箱」を結びつけているが、これは無関係であろう。
北イスラエル王国が成立するまでの時点で、統一王国の時代に「モーセの契約の箱にちなんで箱を担ぐ祭り」は存在していない。
とすれば、10部族がバアル崇拝を始めた後で、創られたもの・・という事になるのだが、神(創造主)への信仰を捨てて亡国し、異国を放浪した10部族が、 急に神とモーセの事を思い出して「モーセの契約の箱にちなんだ祭り」を新たに創作した――と言うスト―リ―に説得力があるだろうか?

北イスラエル王国が成立する以前にすでに存在していた習慣、習俗が続いた可能性はある。塩をまいてお清めをする古代イスラエルの習慣、あるいは 「種いれぬパン」(モッツァ)を7日間食べ、また苦菜を食べる「過ぎ越しの祭り」の習慣が、日本の塩を撒く習慣やモチを食べ、七草カユを食べる日本の 正月の習慣の源である可能性は多いにある。
しかしお神輿と契約の箱を結びつけてしまう事はそれとは意味がまるで違うのである。


お神輿は「契約の箱」とは無関係であるが、北イスラエル
のお祭りから来ているのではないか?という事

同祖論者の多くは小谷部以来、神道の風習や神社の構造、神話などを何でもユダヤ教に結びつけて考えたがるが、その半分は的はずれであろう。 例えば神社の祭礼としてなされる「お神輿」と「モ−セの契約の箱」を結びつけて考えているようだが、両者に関連を見つける事はできない。稚児(ちご)を神に見立てて 練り歩く神輿の風習は、神社の“神殿売春”と結ばれており、これはヘブライの宗教とは関係なく、異教の風習である。
列王記12/30は、北イスラエルのお祭りの光景を「民はその一体の前をダンまで行った」と記録している。すなわち、民はダンまで 行進し、その後を金の子牛像が進んだのである。
ところで金の子牛像が自分で歩いて行くわけがないので、誰かが担いで、何かに乗せて行ったのであろう。 この時代、神の像を輿に乗せて運ぶのが普通であった。アッシリア王ティグラトピレセル三世(前740頃)の宮殿から出土した浮き彫りの図像には、アッシリアの軍隊が 征服したある町から、四体の神像を輿に乗せては運び出す様子が描かれている。
つまり北イスラエルの民もダンの街まで、金の子牛像を乗せた神輿を担いで行ったのであり、その前をたくさんの人が練り歩いたのである。その光景は 現在日本のお祭りの光景にかなり近いものであっただろう。
神殿売春――フレイザーと婚姻儀礼学派による研究あり。 日本では民俗学者中山太郎による『愛欲3000年史』『日本巫女史』など。また『聖書』の神は「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。男子は 一人も神殿男娼になってはならない」(申命23/18)と厳しく諌められたのである。

「民はその一体の前をダンまで行った」―― 七十人訳にはベテルについても同様な事が記されている。

 
参考サイト
*日本に興味を示すユダヤ人@
*日本に興味を示すユダヤ人A
*サイト名:聖書と日本フォーラム
  *教えて神殿売春
*ウィキペディア騎馬民族征服王朝説
*「古代史の画像・日本人のルーツ」カレン人の言い伝え
*ウィキペディア,ヨセフ・アイデルバーグ


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お疲れ様
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